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二階堂会長、[[江崎真澄]]、[[小坂徳三郎]]、[[山下元利]]ら木曜クラブの残留組は以後「二階堂グループ」と呼ばれることとなった<ref>{{cite news |author= [[後藤謙次]] |url= https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/33444 | title= 特別企画 砂防会館あの日あの時 壁に刻まれた刀傷 | newspaper= 日本記者クラブ | date= 2016-6 | accessdate = 2020-8-2 }}</ref>。引き続き独立勢力を維持したが、少人数で閣僚ポストの獲得もままならず、政界への影響力は低下した。なお、中立系も[[内閣官房長官]]を務めていた後藤田を除き総裁選直前に竹下支持に動いている<ref>[[鈴木棟一]]『田中角栄VS竹下登』3巻P109、講談社+α文庫、2000年</ref>
 
1989年6月8日、政府・自民党首脳会議での閣僚・党役員の派閥離脱方針に沿った措置として、二階堂([[自由民主党副総裁|副総裁]]経験者として自民党最高[[顧問]])と、北海道・沖縄開発庁長官として入閣した[[井上吉夫]]は二階堂グループを一定期間のみ離脱した。後任の会長には江崎が就任した<ref>『中日新聞』1989年6月9日付朝刊、2面、「木曜ク後任会長に江崎氏」。</ref>。
 
[[1990年]]2月18日、[[第39回衆議院議員総選挙]]が行われる。このときすでに[[稲村利幸]]は[[政策科学研究所 (派閥)|渡辺派]]に移っていた<ref name="binran199002">{{Cite book |和書
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同年2月26日、江崎、山下、二階堂は協議し、二階堂グループは事実上解散状態にあるとの認識で一致した<ref name="asahi19900227">『朝日新聞』1990年2月27日付朝刊、2面、「二階堂グループ、活動に“終止符” 江崎氏ら3氏を除き他派閥へ」。</ref>。4月10日、『国会便覧』が発行される。この時点で二階堂は[[無派閥]]となり、木曜クラブの所属議員は江崎と山下の2人だけになった<ref name="binran199002" />。こうして田中政治は終焉を告げた。
 
== 脚注 ==