「名家 (諸子百家)」の版間の差分

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『公孫龍子』は『[[道蔵]]』などに収録されて辛うじて散逸を免れたものの{{Efn|『公孫龍子』の文献問題については{{Harvnb|加地|2012}}や{{Harvnb|浅野|2003}}が詳しい。}}、[[注釈書]]が作られることは後述の明清代までほぼ無かった{{Efn|現存最古の『公孫龍子』注として、[[北宋]]の[[謝希深]]の注が現存しているが、『[[四庫提要]]』や[[狩野直喜]]に酷評されており{{Sfn|狩野|1953|p=249}}、積極的に参照する学者も少ない。}}。『墨子』墨弁の場合もおおよそ同様だった{{Sfn|久保田|2005|p=90}}。[[西晋]]の[[魯勝]]は、墨弁の注釈書を著したが、叙文だけ残して散逸してしまった<ref>叙文は『[[晋書]]』隠逸伝に引用されて伝わる。 {{Wikisourcelang-inline|zh|魯勝墨辯注敘}}</ref>。
 
一方、『荘子』は多くの注釈書が作られたが、注釈者の大半は、天下篇の名家学説を詳細に注釈する価値が無い箇所とみなしていた<ref>{{Cite web|title=金陵叢書(甲集)・莊子翼2 第504頁 (圖書館) - 中國哲學書電子化計劃|url=https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=85035&page=504|website=ctext.org|accessdate=2021-02-13|language=zh-TW}}</ref>。例えば、西晋の[[郭象]](『荘子』注釈者の筆頭)は、天下篇の名家学説に対して「存而不論」(注釈書から削除はしないが注釈を施さない)という冷淡な態度をとっていた<ref name=":16">{{Cite book|和書|title=中国中古の学術|year=2006|publisher=研文出版|author=古勝隆一|authorlink=古勝隆一|isbn=978-4876362622|pages=232-234|date=}}</ref>{{Efn|[[郭象]]『荘子』注の同箇所などによれば、郭象が生きた時代には、名家学説と同様の「名理」をめぐる議論(「辯名析理」)が盛んになっていた{{Sfn|加地|2012|p=328}}<ref name=":16" />。郭象はそのような議論に対して、距離を置く態度をとっていた<ref name=":16" />。なお「名理」は、『三国志』魏書[[鍾会]]伝、同[[荀彧]]伝注、[[王弼 (三国)|王弼]]『老子指略』など、才性四本論や玄学にまつわる同時代の文献にも見られる<ref>許抗生「名理之学」、『[[中国大百科全書]] 哲学1』[[中国大百科全書出版社]]、1987年。{{NCID|BN12206880}}。622頁。</ref>。}}。まれに天下篇の名家学説に注釈が施されることは有っても{{Efn|例えば[[成玄英]][[注疏|疏]]や、『[[経典釈文]]』所引の[[司馬彪]]注では注釈を施している{{Sfn|池田|2014|p=}}。また日本では、[[江戸時代虎関師錬]]後期<ref>{{Citation|和書|title=「日本人“荘子"受容」に関する覚え書|last=中川|first=徳之助|year=1985|url=https://doi.org/10.15027/15939|journal=日本研究|publisher=日本研究研究会|issue=1|page=20|naid=120000883109}}</ref>や[[中井履軒]]が『荘子雕題』で注釈を施している<ref name=":6">{{Cite journal|和書|author=湯城吉信|year=2008|title=中井履軒の老荘観|url=https://hdl.handle.net/11094/61207|journal=中国研究集刊|volume=46|page=51|doi=10.18910/61207}}</ref>が自説を述べている。}}、名家自体の体系的な研究に繋がることは無かった。斉物論篇の「指之非指」なども、名家と関連付けずに解釈されることが多かった{{Efn|例外として、北宋の{{仮リンク|陳景元|zh|陳景元 (北宋)}}は、『南華真経章句音義』の中で、斉物論篇と名家の関連性を指摘して、同書の付録『[[s:zh:南華真經餘事雜錄|南華真経余事雑録]]』に『公孫龍子』を抄録している{{Sfn|加地|2012|p=127-128}}。}}。
 
名家や墨弁の体系的な研究が始まったのは、明清代、特に清代末期の[[光緒]]年間頃([[1870年代]]から[[1900年代]])の、[[兪樾]]・[[孫詒譲]]、およびその次代の[[章炳麟]]・[[王国維]]らによる、[[清朝考証学]]の手法を踏まえた諸子学においてであった。しかしながら、ちょうど時を同じくして、[[明治]]期の日本から近代的な「[[中国哲学]]」の研究手法(次節参照)が流入し始めていた。章炳麟以降の諸子学もその流れに飲み込まれた{{Sfn|梅|2007|p=65}}。そのため結局、秦代から清代まで、伝統的な手法で名学が研究される機会はほとんど無かった。