「アレクサンダー・ハミルトン」の版間の差分

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[[1774年]]サミュエル・シーバリーの大陸会議非難を反駁した論文《大陸会議の措置に関する敵の中傷に対し、その措置を全面的に擁護す》を公刊。これは独立革命に関してハミルトンが執筆した最初の公的文書である。[[1775年]]2月、さらに大陸会議を擁護し、愛国派の見解を表明した《その農民の見解を論駁す》を公刊。同年6月、《ケベック法に関する所見》を発表し、イギリス本国が植民地支配を強めるために[[カナダ]]のカトリック教徒を利用する計画があることを批判。10月、大衆の印刷業者への暴行を非難。
 
[[1776年]][[3月14日]]、ニューヨーク植民地砲兵中隊を指揮する大尉に任命され、独立戦争に従軍、幾多の会戦に参加して軍人としても優れた才能を発揮した。[[1777年]]から[[ジョージ・ワシントン|ワシントン]]総司令官の副官に任命され、中佐として軍務に奔走するかたわら、[[デイヴィッド・ヒューム|ヒューム]]、[[トマス・ホッブズ|ホッブズ]]などの読書と研究に努めた。[[1778年]]に《プブリウス書簡》を新聞紙上に発表し、軍需品納入をめぐる不正事件を摘発し、大陸会議の欠陥もあわせて批判する。[[1779年]]12月から翌年の3月にかけて、独立運動の指導者に書簡をおくり、その中ですでに合衆国銀行設立の構想を立てている。[[1781年]][[7月12日]]から4回にわたって連載された論文《大陸主義者》では、強力な中央政府樹立の必要を説いた。[[10月14日]]にヨークタウン陥落の陣頭指揮をとり、1010番堡塁をおとし勝利している。
 
軍務を解かれ[[1782年]]から弁護士開業を目指し、ブラックストーン、[[フーゴー・グローティウス|グロティウス]]、プッフェンドルフについて勉強する。[[4月18日]]から新聞掲載された《大陸主義者》の続編で、通商規制の必要を説く。[[7月22日]]にニューヨーク邦大陸会議議員に選出され、そこで大陸会議の課税権強化を提唱。[[1784年]]1月からの《フォーションからの書簡》で、ニューヨーク邦におけるイギリス忠誠派への不当な処置を批判した。[[1786年]]ニューヨーク邦議会により、アナポリス会議の委員に選出され、[[フィラデルフィア]]に新しい議会を開催するよう各邦に要望した声明文を起草。[[1787年]]3月ニューヨーク邦議会により憲法制定会議への代表として派遣され、[[9月17日]]に自身の憲法の草稿を作成し、ついで憲法草案に署名をする。[[10月27日]]から[[ジェームズ・マディソン]]、ジョン・ジェイと協力して翌年[[5月28日]]までに《[[ザ・フェデラリスト]]》論文を執筆して、合衆国憲法批准を促進した。[[1789年]][[9月11日]]、ワシントン内閣の財務長官に任命される。
 
[[1790年]]から[[1791年]]までにハミルトンによって連邦議会に提出された報告書は、《公信用》《未占有地》《蒸留酒税》《国立銀行》《貨幣鋳造所設立》《製造業》と実に多種多様。一方「レイノールズ事件」である婦人との不倫が暴露されたり、公債操作による不当利益獲得の疑惑が取りざたされ、[[トーマス・ジェファーソン|ジェファーソン]]をはじめとする政敵との確執が強まる。[[1794年]]「ウィスキー一揆」鎮圧のため12千の軍隊で[[ピッツバーグ]]に進軍して、一挙に制圧。イギリスとの妥協の一環として[[1795年]]に結ばれたジェイ条約の正当性を「カミュラス》論文で擁護し、連邦議会に批准させた。この年に財務長官を辞任している。[[1798年]]から陸軍検閲総監として、新しく編成された連邦軍の軍制・兵制確立を遂行。[[1803年]]には弁護士としての名声は最高潮に達した。1804年[[7月11日]]、[[ニュージャージー州]][[ホーボーケン]]において[[アーロン・バー]]と決闘し重傷を受け、翌日死去。
 
独立後のアメリカ合衆国憲法の制定・中央政府の強化に果たしたハミルトンの業績は、余人をもって代え難い。保護貿易政策や合衆国銀行の必要を訴えたことに見られるような内政・外交における先見性と優れた文筆は、ジェファーソン、[[ジョン・アダムズ]]と才能に恵まれた初期の合衆国政府の中でも特に有力な政策立案者とした。商工業者の利益を代表し、大地主と独立自営農民とは対立する政治姿勢をとっていたにもかかわらず、[[1801年]]の大統領選挙では、ハミルトンの指導する[[連邦党]]にとって最大の敵と見られたジェファーソンを支持し、対立候補であったアーロン・バーを忌避するといった挙にでている。これはジェファーソンが大統領となった後には、今まで自分が攻撃していた制度を逆に保持するであろう、との見解による。これほどの明察をもちながら、ハミルトンの性格は貴族的で倨傲、ジェファーソンよりも妥協に向いていなかったために独立戦争中はワシントンとも衝突し、たびたび人身攻撃の的となり、最後はアーロン・バーの恨みを買うこととなった。