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元々は費禕、[[郭攸之]]と共に劉禅の補佐を任されていたが、費禕は諸葛亮の[[北伐]]の随員となり、また郭攸之はおとなしい性格であったため、諫言するのはもっぱら董允の役割となった。劉禅が遊興に耽った時はそれを度々諌め、後宮の人員の増員も行わせなかった。
 
劉禅は成長すると[[宦官]]の[[黄皓]]を寵愛して重用しようとした、これを厳しく諌めている<ref>[[陳寿]]はこの董允の態度を後任の侍中である[[陳祗]]と比較し、上に主君を匡正し、下に黄皓を咎めた、と評している。</ref>。このため、黄皓も董允存命中は政治に関与することができない黄門丞の地位に留まり、悪事をはたらくことはできなかった<ref>悪事とは陳寿自身の評か。</ref>
 
費禕の後任として[[尚書令]]に任命された際に「自分は蒋公琰と費文偉に及ばない」と常に自己批判をしていた。また、蒋琬が[[益州]][[刺史]]を費禕と董允に譲ろうとしたときや、爵位を与えようとしたときも、これを固辞した。[[243年]]に輔国将軍、[[244年]]に侍中守尚書令のまま[[大将軍]]であった費禕の次官となる。