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== 平賀艦艇設計の評価 ==
平賀の留学帰国後は海軍艦政本部で艦艇設計に従事し、第四部計画主任となってからは[[八八艦隊]]を構成する[[戦艦]][[長門 (戦艦)|長門紀伊]]型、重巡洋艦[[古鷹 (重巡洋艦)|古鷹]]型、[[妙高]]型、軽巡洋艦[[夕張 (軽巡洋艦)|夕張]]、[[川内]]型、駆逐艦[[神風]]型、[[若竹]]型を設計した。当時としては特異な夕張の設計や重巡洋艦[[妙高 (重巡洋艦)|妙高]]型の軽量化は各国海軍艦艇造船官を注目させた。艦艇設計への情熱は非常に強く、海軍中枢部や他の造船官らからの反対意見には頑として譲らなかったため、平賀譲ならぬ「平賀不譲」と皮肉られたほどである。仕事上の問題で衝突があると、議論の相手が誰であれ怒鳴りつけることもしばしばで(すぐに赤熱するという意味で)「[[ニクロム線]]」とも渾名された。
[[Image:Yubari n09957.jpg|thumb|[[夕張 (軽巡洋艦) |軽巡洋艦夕張]]]]
 
この態度が仇となり、周囲からの反感をかい、一時左遷されることもあった。平賀の設計技術は抜きん出ており、条約時代の[[千鳥型水雷艇|新型水雷艇]]や[[吹雪型駆逐艦|新型駆逐艦]]、[[最上型重巡洋艦|新型軽巡洋艦]]設計に[[藤本喜久雄]]ではなく彼が携わっていたなら、[[友鶴事件]]、[[第四艦隊事件]]といった不幸な事故も起こることがなかっただろうと言う意見もある。<ref>ただし、平賀の設計した駆逐艦早蕨も復元力不足による転覆沈没事故を起こしている。</ref>彼をして「造船の神様」と呼ぶものもいる。
 
[[ワシントン海軍軍縮条約|ワシントン軍縮条約]]で、[[巡洋艦]]のカテゴリーが排水量ではなく備砲の大きさで決められる事となったのは、彼の設計による“軽巡洋艦”古鷹型が他国の軽巡に比して強力な武装を実現していた為、これを重巡洋艦にカテゴライズして足枷をはめようという意図があったと言われることもある。更に、続く[[ロンドン海軍軍縮会議|ロンドン条約]]で補助艦艇、特に重巡の保有量を制限しようとしたのは、妙高型やその改良型のこれ以上の建造を阻止するのが主な目的であったとも言われている。平賀の設計は、米英の関係者をして、条約で掣肘を加える必要があると考えさせるほど、軽量な船体に重武装を施したものだったと言える。
 
しかし、高い評価の一方で設計のみがあって建造や運用を無視したとも言える失策も多い。[[八八艦隊]]計画のアウトラインは前任者である[[山本開蔵]]が策定したが、長門型2隻、土佐型2隻、天城型4隻、紀伊型4隻を建造するにあたり、その40センチ連装砲塔58基分を共通にして大幅なコストダウンと工期の短縮を図っていた。土佐にいたっては起工から竣工まで24ヶ月という常識外れな建造速度であり、この日本海軍の急速な新型戦艦の拡張による海軍戦力の優越が見込まれたことが、ワシントン軍縮会議の原因である。しかし平賀は加賀の設計において連装砲塔、三連装砲塔の混載という量産効果を台無しにする設計変更を希望し、山本に拒否されている。
しかし、昭和7年([[1932年]])には、既に採用されかけていた海軍駆逐艦の主砲高角砲統一案を廃案にし、これが仇となって太平洋戦争中、日本海軍は米国海軍に対し対空能力において大幅な劣勢を強いられるなど、履歴上の過失も指摘される。更に、被弾、損傷時に於ける[[ダメージコントロール]]の研究に関しても、さして注視していなかった面も見られる。
 
大正9年12月に計画主任に就任してからは、紀伊型の設計にあたり「戦艦は巡洋戦艦と防御力に違いがあるべきである」として舷側装甲を10インチから11.5インチに増やす改設計を行ったのをはじめ、石油資源の保護を理由として巡洋艦の缶を重油専焼から石炭混焼への変更、安定性不足を理由とした駆逐艦の船体幅の増加など、前任者が行った艦型の整理による量産体制の否定を続け、工期の延長や費用の高騰を招いた。
また、彼は当時の列国の新造艦では廃止される傾向にあった中央隔壁をどの艦にも設けたが、これは船体を多少強固にする反面、魚雷命中等、何らかの要因で艦が浸水した場合に、隔壁によって片舷のみが浸水し、傾斜、沈没しやすくなる致命的な欠陥があった。太平洋戦争では、これが裏目に出て、日本の巡洋艦は一発程度の被雷(魚雷命中)で頻繁に傾斜、転覆するなど比較的損害が多く([[第一次ソロモン海戦]]における重巡洋艦加古の沈没がその一例)、 また当時の造船の新技術である溶接工法に反対しリベット工法にこだわり、結果として被弾時の損害が増え(リベットの破損による他箇所への損害波及)また、船体のブロック工法等の新技術を取り入れにくくなるなど彼の設計は保守的であったともいえる。
 
大正10年度に設計されたすべての艦が平賀による設計変更を加えられ、重量増加によって速力が2~3ノット低下している。結果、海軍が意図した巡洋艦20隻の取得が建造費の増加で12隻に抑えらることとなった。その一方で「3500トンで5500トンの巡洋艦と同じ戦力を発揮する」として夕張の建造許可を取り付けたが、完成してみれば予定重量を10パーセントも超過して速力の低下を招いた上に、船体規模の不足から荒天性能や水上偵察機の搭載能力に欠け、また軽巡洋艦の任務であった水雷戦隊司令部としての機能、人員の余裕も無く、そして致命的なこと航続力は5500トン巡洋艦の14ノット5000海里に対して3300海里と、駆逐艦以下の行動力しか無い艦となってしまった。
 
古鷹型も7500トンの予定が1000トン超過して速力低下を招いた上に、細い船体に単装砲塔6基というデザインを通すために、艦政本部第一部の反対を退けて人力揚弾方式を採用したことから、砲塔内の即応弾10発を撃ちつくした後は給弾が追いつかないという欠陥を抱えていた。<ref>この欠陥にもかかわらず古鷹型で平賀の名声が高まった一因に、欠陥の原因であるはずの人力揚弾方式の単装砲塔が、発射速度の速い新型砲であると内外で分析されたことが挙げられる。</ref>
 
妙高型は主砲の散布界が異常に大きく、連装3基の青葉に対して連装5基で命中率が半分という欠陥も発生したが、とくに問題となったのは平賀の独断で水雷兵装を全廃するという「暴挙」に出たことにある。設計主任といえ、軍艦の兵装配置や、まして国防計画である漸減戦略の根幹を成す水雷作戦を否定する権限があるわけも無い。
 
妙高型での水雷兵装の全廃が問題になった時期は、就役した夕張や古鷹の欠陥が明らかになった時期でもあった。度重なる失態や暴挙をかばい立てできなくなった山本は、大正12年10月1日付で平賀に欧州への技術調査を命ずるとともに、海軍を退職した。後任の藤本の最初の仕事は、連装砲塔装備の改古鷹型である青葉型の設計や、妙高型の水雷兵装の復活という、平賀設計のいわば後始末であった。
 
艦政本部長の[[山梨勝之助]]は帰朝した平賀の海軍技術研究所造船研究部長に任じ、設計部門への復帰を許さなかった。金剛代艦の設計時においては、技術検討会議の席上で設計部門ではない海軍技術研究所所長でありながら私案を提出し再び批判を浴びが、高速で襲撃する駆逐艦を撃退するための副砲を、高速航行時には使用できないケースメート式にする、後檣楼が省かれたために予備の射撃式所が無いなど設計の内容でも酷評を受けている。平賀はこのときの設計案においても連装、三連装の混載を主張した。このころには「船作りは上手いが軍艦作りの能力の無い造船官」という評価であったという。<ref>戦艦大和 遠藤昭 サンケイ出版</ref>
 
昭和7年([[1932年]])には、既に採用されかけていた海軍駆逐艦の主砲高角砲統一案を廃案にし、これが仇となって太平洋戦争中、日本海軍は米国海軍に対し対空能力において大幅な劣勢を強いられることとなる。藤本の急死後、後継者には同い年の[[江崎岩吉]]と[[福田啓二]]が挙がったが、平賀の弟子である福田が計画主任に任じられている。同年7月、特型駆逐艦がうねりによって船体にしわが発生する事件があった。これを調査した牧野茂造船少佐は船体強度上の重大な欠陥とし、同型艦すべての入渠修理を上申したが容れられず、豊田貞二郎艦政本部総務部長の決定の下、定例修理で対応する予定であった。9月に第四艦隊事件が発生すると、平賀は牧野造船少佐の上申を握りつぶした上で、藤本とコンビを組んでいた江崎を「事前の処置を図らなかった」として呉工廠に転出させる辞令を出し「将来のことを考え民間会社に移ってはどうか」と「忠告」したという。
 
この頃、設計部門に返り咲いた平賀は戦艦設計の唯一の経験者として絶大な影響力を振るうようになっていた。軍令部要求に従って速力30ノット以上、主砲の艦首集中配備、充実した航空艤装を持った高速戦艦として藤本・江崎コンビによって設計が進んでいた大和型は、これ以降、平賀好みの重防御低速戦艦として設計変更が進むことになる。そしてこのときも主砲の連装、三連装を混載した設計案を提出し、軍令部から砲塔二種の生産余力なしと拒否されている。
 
また、彼平賀は当時の列国の新造艦では廃止される傾向にあった中央隔壁をどの艦にも設けたが、これは船体を多少強固にする反面、魚雷命中等、何らかの要因で艦が浸水した場合に、隔壁によって片舷のみが浸水し、傾斜、沈没しやすくなる致命的な欠陥があった。太平洋戦争では、これが裏目に出て、日本の巡洋艦は一発程度の被雷(魚雷命中)で頻繁に傾斜、転覆するなど比較的損害が多くかった。([[第一次ソロモン海戦]]における重巡洋艦加古の沈没がその一例)、 また当時の造船の新技術である溶接工法に反対しリベット工法にこだわり、結果として被弾時の損害が増え(リベットの破損による他箇所への損害波及)また、船体のブロック工法等の新技術を取り入れにくくなるなど彼の設計は保守的であったともいえる。
 
平賀は溶接工法に反対しリベット工法にこだわり、結果として被弾時の損害が増えたり(リベットの破損による他箇所への損害波及)また、船体のブロック工法等の新技術を取り入れにくくする、ディーゼルエンジンへの不信など、保守的な手法を用いるがゆえに古い技術による無駄の多い設計となっていた。
 
また、彼が設計を指導した大和型の防水隔壁の数は23で、20年も古い長門型と同じ数でしかないなど、被弾、損傷時に於ける[[ダメージコントロール]]の研究に関してもさして注視しておらず、その一方でわずかな能力向上のためにはコストを度外視していた。その精緻な設計は造船の現場を無視したもので、しかし重量超過や工期の遅れについては厳しく「指導」した。平賀の上司であった山本は、敗戦の責任の多くが艦政にあり、その原因が平賀の艦政本部復帰にあると考えていたと言われる。戦後、造船協会が名誉会員の称号を贈ろうとしたときはこれを固辞し、強行するなら協会を脱退する、自分はそのような名誉を受けるに値する人間ではない、と言ったといわれる。
 
== 人物像 ==