「ナチス・ドイツの軍事」の版間の差分

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フランスとの戦いでは[[エーリッヒ・フォン・マンシュタイン]]が発案した通称「[[マンシュタイン計画]]」が実行されることとなった。計画には[[ハインツ・グデーリアン]]が発案した、突破力と機動力のある装甲師団によって英仏軍を分断して補給線を切断し、両軍を崩壊させるという「[[電撃戦]]」戦術が取り入れられ、5月10日からはじまった[[ナチス・ドイツのフランス侵攻|低地諸国およびフランスへの侵攻作戦]]では絶大な戦果をもたらした。6月21日にフランス([[ヴィシー政権]])は休戦を申し出、フランス北部はドイツの占領下となった([[ナチス・ドイツによるフランス占領]])。しかし[[ダンケルクの戦い]]ではヒトラーの介入とゲーリングの主張もあり、[[ダイナモ作戦]]による英仏軍の脱出を許すこととなった。
 
続いてのイギリス侵攻作戦([[アシカ作戦]])の前哨となる航空戦では、イギリス側の[[レーダー]]網を生かした効果的な反撃により、イギリス上陸作戦を無期延期とせざるを得なくなった([[バトル・オブ・ブリテン]])。リッベントロップはソ連に[[イギリス領インド帝国]]等への南進を働きかけたが、ソ連は動こうとしなかった{{sfn|ヨースト・デュルファー|2010|pp=86}}。一方でヒトラーは東方生存圏の獲得のためソ連侵攻を決定し、侵攻計画の策定を命令した{{sfn|ヨースト・デュルファー|2010|pp=86}}。このため、[[ウィーン裁定]]によって[[ハンガリー王国 (1920-1946)|ハンガリー王国]]や[[ルーマニア王国]]、[[ブルガリア王国]]に対する影響力を強めた。独ソ不可侵条約以降関係が冷却化していた[[日本]]に再度接近し、6月に参戦していたイタリアとともに「[[日独伊三国同盟]]」を結成した。ヒトラーやリッベントロップはこの同盟成立によって[[アメリカ合衆国]]の参戦が避けられると考えていたが、アメリカは逆に挑発とった{{sfn|ヨースト・デュルファー|2010|pp=86}}。さらにドイツ側はソ連攻撃の意図を明確に日本には伝えておらず、日本側も対米宣戦について事前に明確に伝達しなかった{{sfn|ヨースト・デュルファー|2010|pp=87-88}}など、両国の意思疎通はほとんどできていなかった
 
==== 1941年 ====
{{see also|ユーゴスラビア侵攻|バルカン半島の戦い|バルバロッサ作戦}}
ドイツはソ連との戦争の足場固めのため、東欧諸国にドイツの陣営、すなわち[[枢軸国]]に参加するよう圧力をかけていた。ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアはこれに応じ、摂政[[パヴレ・カラジョルジェヴィチ]]が統治する[[ユーゴスラビア王国]]も1941年3月25日に同盟参加を受諾した。しかし3月27日に摂政政府はクーデターで倒され、ユーゴスラビアの枢軸参加は不透明になった。ヒトラーは激怒し、4月6日に他の枢軸国とともに[[ユーゴスラビア侵攻|ユーゴスラビアへの侵攻]]を開始した。ユーゴスラビアは4月17日に降伏した。さらにドイツ軍はルーマニア・ブルガリアを経由して[[ギリシャ・イタリア戦争]]が続いていた[[ギリシャ王国]]に侵攻した([[ギリシャの戦い]])。ギリシャ王国軍とイギリス軍は4月中にバルカン半島から駆逐され、6月1日には[[クレタ島]]も陥落した([[クレタ島の戦い]])。
開戦直前にヒトラーが赤軍に配属された[[政治委員]]の即時処刑を命令する({{仮リンク|コミッサール指令|en|Commissar Order}})など、他の地域の戦争と比べてもより過酷な占領統治と戦闘が続けられた。
 
6月22日、ドイツ軍はソ連侵攻作戦「[[バルバロッサ作戦]]」を発動した。ヒトラーは[[独ソ戦]]を「イデオロギーの戦い」「絶滅戦争」{{sfn|イアン・カーショー|1999|pp=214}}と位置づけ、開戦直前にヒトラーが赤軍に配属された[[政治委員]]の即時処刑を命令する({{仮リンク|コミッサール指令|en|Commissar Order}})など、他の地域の戦争と比べてもより過酷な占領統治と虐殺が続けられた{{sfn|イアン・カーショー|1999|pp=194}}と。[[赤軍]]は侵攻を予期しておらず、2ヶ月の間ドイツ軍は各地で快進撃を続けた。しかしヒトラーが[[キエフ]]方面に装甲師団を振り向けたたため、[[モスクワ]]攻略作戦タイフーン作戦は10月に延期された。しかし例年より早い冬によって泥濘と降雪がドイツ軍の足を止め、赤軍も猛抵抗したことにより失敗に終わった([[モスクワの戦い]])。国防軍の各将軍はモスクワ前面からの撤退を唱えるようになったが、ヒトラーの厳命によって戦線は維持された{{sfn|イアン・カーショー|1999|pp=218}}。しかしこのために陸軍総司令官[[ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ]]ら多くの将軍が更迭されたが、ヒトラーは自ら陸軍総司令官に就任することで、さらに陸軍の戦争指導にのめりこむこととなった{{sfn|イアン・カーショー|1999|pp=200}}。
 
日本軍の[[真珠湾攻撃]]が起こったのはこの冬の危機のさなか12月8日であった。ヒトラーはアメリカとはすでに紛争状態にあると認識しており、日本の宣戦をかえって天佑と捉えた{{sfn|イアン・カーショー|1999|pp=200}}{{sfn|ヨースト・デュルファー|2010|pp=88-89}}。12月11日にはアメリカに対して宣戦布告し、日本・イタリアと単独不講和協定を結んだ。
 
==== 1942年 ====
{{see also|ブラウ作戦}}
9月24日には開戦以来の陸軍参謀総長[[フランツ・ハルダー]]が更迭され、[[クルト・ツァイツラー]]が後任となった。
 
この時期にはドイツ軍の戦力が前年同時期よりも弱体化していることが確認されている{{sfn|イアン・カーショー|1999|pp=201}}。
==== 1943年 ====
{{see also|イタリア戦線 (第二次世界大戦)|クルスクの戦い}}
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====ヒトラーの戦争指導====
[[第二次世界大戦]]の全時期を通じて、ヒトラーは前線に近い[[総統大本営]]から積極的に軍事指導を行った。ヒトラーは1940年に反対意見を退けて[[マンシュタイン計画]]を採用して勝利したことと、1941年冬の東部戦線危機で将軍達の退却勧告を退けて被害を最小限に食い止めたことで、自らの戦争指導に絶対の自信を持った{{sfn|イアン・カーショー|1999|pp=218}}。前線司令官の意見は尊重されず、[[戦術]]レベルでも総統大本営による決定が行われた{{sfn|イアン・カーショー|1999|pp=219}}。1942年以降は殆ど国内政治を顧みなくなっていた{{sfn|イアン・カーショー|1999|pp=207}}。ヒトラーは第一次世界大戦における一兵士としての経験と自らの偏った知識を強調し、さらに[[指導者原理]]による権威によって自らの意見を通した{{sfn|イアン・カーショー|1999|pp=215、219}}。一方で将軍たちに破格の「ボーナス」を与えることで、彼らの歓心を買おうとした{{sfn|イアン・カーショー|1999|pp=222}}。
 
ヒトラーは軍需品についても細部までの知識を有していたが、体系的な理解はしておらず、近代の複雑な科学技術の連携を理解できなかった{{sfn|イアン・カーショー|1999|pp=214}}。ヒトラーは1942年から1945年までの間に、「戦時経済会議」において2500の「総統決定」を行っている{{sfn|イアン・カーショー|1999|pp=214}}。ヒトラーは防御兵器よりも攻撃兵器を好み、[[迎撃機]]の生産よりも[[V2ロケット]]による報復攻撃を望んだ{{sfn|イアン・カーショー|1999|pp=216-217}}。また[[戦車]]についても高速化より装甲化を好み、低速な重量型戦車を要求したが、実際に戦果を上げていたのは軽量で高速な戦車であり、1944年以降最も戦果を挙げたのは[[軽駆逐戦車ヘッツァー]]であった{{sfn|イアン・カーショー|1999|pp=215}}。
 
== 組織 ==