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[[ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ|フィヒテ]]や[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]の[[ドイツ観念論]]や[[ロマン主義]]の支配的影響を受けつつ、[[ハインリヒ・ハイネ|ハイネ]]と[[ルートヴィヒ・ベルネ|ベルネ]]を通じて自由主義から社会主義思想へと導かれ、[[ロレンツ・フォン・シュタイン]]の影響で明確に社会主義思想を持つようになり、マルクスとエンゲルスの[[科学的社会主義]]にも影響されて一個の[[国家社会主義]]者となった人物である<ref name="森(1969)230">[[#森(1969)|森(1969)]] p.230</ref>。3月革命の指導者の一人だが、当時の彼は22歳の多感な若者だったので革命が挫折に終わった後も生涯にわたって革命の夢を追い続けることになった<ref name="西尾(1986)10">[[#西尾(1986)|西尾(1986)]] p.10</ref>。
 
社会主義共和政の統一ドイツを理想としたが、ヘーゲル的立場から「国家は論理的全一体の有機体」と考えていたため、たとえ社会主義共和政でなくとも、まずはドイツ統一国家を作ることが大事と考えていた。「連邦か国民的統一かという大きな対立に比すれば君主国か共和国かという対立は比較的無意味である」と述べている<ref name="森(1969)328">[[#森(1969)|森(1969)]] p.328</ref>。また「君主にはあらゆる階級闘争や党派争いを超越した論理的国家意思の全体の表現者という面がある」として君主制に一定の意義を認めている<ref name="森(1969)328">[[#森(1969)|森(1969)]] p.328</ref>。近代国家の多くがそうだったように、まずは一人の君主([[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]])を中心としたドイツ統一を進めることが現実的と考えていた<ref name="森(1969)330">[[#森(1969)|森(1969)]] p.330</ref>。
 
こうした君主制に対する柔軟な考えが保守主義者ビスマルクとの接近を可能とした。ラッサールはビスマルクとの会談で「社会的王権」や「普通選挙の欽定」といった君主主義的ともとれる要請を行っている。これを捉えてビスマルクは後年ドイツ帝国議会において「ラッサールは共和主義者ではなく君主主義者」と述べた。しかしラッサールは基本的に共和主義者であり、過渡的に「社会的王権」を主張していたにすぎなかった<ref name="林(1993,2)309">[[#林(1993)|林(1993)第2巻]] p.309</ref>。なおラッサールは立憲君主制には一切意義を認めていなかった。彼は「[[絶対君主制]]と[[共和主義]]は理解できるが、[[立憲君主制]]は理解できない」「立憲君主制は奇形物であり虚偽だと思う」と語っている<ref name="前田(1980)73">[[#前田(1980)|前田(1980)]] p.73</ref>。