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{{OtherusesOtheruseslist|1927年に発生した日本の恐慌|1930年に発生した日本の恐慌|昭和恐慌}}
[[Image:Bank run during the Showa Financial Crisis.JPG|thumb|250px|当時の取り付け騒ぎ]]
'''昭和金融恐慌'''(しようわきんゆうきょうこう)は、日本で[[1927年]]3月から発生した経済恐慌である。単に'''金融恐慌'''(きんゆうきょうこう)と呼ばれることもある。金融恐慌は本来は抽象的に経済的現象を指す言葉だが、日本においては特に断らない場合は1927年の経済恐慌を指すことが多い。'''昭和恐慌'''とは同義ではない(後述)。
 
== 概要 ==
[[日本の経済史|日本経済]]は[[第一次世界大戦]]時の好況([[大戦景気 (日本)|大戦景気]])から一転して不況となり、さらに[[関東大震災]]の処理のための[[震災手形]]が膨大な[[不良債権]]と化していた。一方で、中小の銀行は折からの不況を受けて経営状態が悪化し、社会全般に[[金融危機|金融不安]]が生じていた。3月14日の衆議院予算委員会の中での[[片岡直温]]蔵相の「失言」をきっかけとして金融不安が表面化し、中小銀行を中心として[[取り付け騒ぎ]]が発生した。一旦は収束するものの4月に[[鈴木商店]]が倒産し、その煽りを受けた[[台湾銀行]]が休業に追い込まれたことから金融不安が再燃した。これに対して[[高橋是清]]蔵相は片面印刷の200円券を臨時に増刷して現金の供給に手を尽くし、銀行もこれを店頭に積み上げるなどして不安の解消に努め、金融不安は収まった。
 
昭和金融恐慌は、後年起きた[[昭和農業恐慌]](1929年の[[世界恐慌]]の影響を受けて主に農業に経済的打撃を受けた)と合わせて[[昭和恐慌]]と言われることもある。
 
== 背景 ==
昭和金融恐慌の原因として、未熟な金融システムと、経済的危機に正しく対処し得なかった未熟な政策が挙げられる。
 
=== 遠因 ===
金融システムの整備が完全ではなかったことから発生した不良債権の処理が適切に為されず、金融不安を起こすに至った。大正期よりこれらシステムの不備は認識されていたが、充分な手当てが為される前に恐慌が発生した。
 
==== 銀行 ====
[[明治維新]]期に設立された[[国立銀行 (日本)|銀行]]の中には、[[秩禄処分|俸禄改革]]における金融公債([[秩禄公債]]・[[金禄公債]])を資本金として設立されたものが多くあった。設立の意図が資金需要に応える経済的理由によらず公債の資金化を動機とした、いわば成り行きで設立したために金融の事情に不案内な者<ref>こと、士族は商いを蔑視し金勘定をさげすんだ。</ref>が銀行経営に当たることも多かったと指摘されている。また、資本金が実際に払い込まれていないものも多かったという。
 
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また、欧州の銀行が[[両替商]]に始まり産業の発展に伴う金融機能の要求に応えて銀行業が発達していったのに対し、日本では海外の金融システムをモデルとして先に銀行が設立されたところから、当初は金融の需要が少なく銀行自身が事業を興して需要を作り出す傾向にあった。これも特定の企業へ貸し出しが偏る要因となった。
 
; 東京渡辺銀行
: 第二十七国立銀行として設立され、二十七銀行を経て[[1920年]][[東京渡辺銀行]]と改称した。経営者一族の関連企業に多額の貸付を行い機関銀行としての性格が強かったが、これらの融資が戦後不況で焦げ付き[[関東大震災]]後に経営が悪化した。
; 台湾銀行
: [[1895年]]の[[台湾]]統治後に日本政府の国策で設立され、紙幣発行権を持つ[[特殊銀行 (日本金融史)|特殊銀行]]であった。台湾における産業の育成に資するところから始まったが、[[樟脳]]の取引を介して[[鈴木商店]]と関係を深めた。この頃情勢が悪化した中国大陸への融資を縮小し新たな融資先を開拓していたところでもあり、鈴木商店への融資を足がかりとして[[内地]](日本本土)にも経営を広げた。同時に融資額が膨らみ、機関銀行としての性格も強めた。しかし、戦後不況で鈴木商店の経営が悪化すると多額の融資が焦げ付き、追い貸しを行うようになった。爾後[[金子直吉]]を鈴木商店の経営から排除し、融資を縮小するべく画策したが失敗に終わっている。
 
==== 産業構造 ====
[[殖産興業]]策の下に産業振興が大いに薦められたが、[[大正]]期に至っても日本経済はその多くを[[生糸]]などの[[軽工業]]に負った。製鉄や造船などの重工業も勃興しつつあり、[[第一次世界大戦]]中には[[ヨーロッパ|欧州]]先進国の産業が衰えたのを代替するまでに至ったが製品の質では未だに一歩譲り、欧州諸国が戦後に産業を回復すると[[アジア]]に獲得した市場を奪回された。これは戦後の大反動(1920年)の一因となる。
 
[[1874年]]に開業した[[鈴木商店]][[1899年]]に台湾の樟脳の販売権を獲得し、この際に[[後藤新平]]と関係を深め政界にも接近した。[[第一次世界大戦]]期には海外電報を駆使して戦争の長期化を予測し、これに備えて企業買収や投機を行い多大な利益を揚げた。業務に必要な資金は銀行、特に台湾銀行からの短期的な融資を中心として賄った。株式による資金獲得では株主の意向を排除できないことを嫌った金子直吉の方針と言われるが、これが経営危機において即座に資金難に陥った一因であるといわれる。
 
また金子直吉の性分として、経営拡大には手腕を発揮したが不採算な事業を畳むことはできなかったといわれる。一方で、経営拡大は日本の産業発展を願う金子の意図に出たものとも言われる。
 
=== 近因 ===
==== 第一次世界大戦 ====
1914~1918年に戦われた[[第一次世界大戦]]において日本の参戦は限定的であり、直接の被害を免れた。一方で当時世界の生産の中心であったヨーロッパが戦場となり生産や輸出が落ち込み、各国が世界の需要を担うこととなった。同時に戦争に供する物資・兵器の需要が高まり、日本からは船舶の供給、海運業務を中心とする物資・サービスが提供された。この影響でいわゆる「[[成金|船成金]]」が生まれるなど日本経済は好況を呈した。このとき、明治以来債務国であったものが債権国に転じ、[[金本位制|正貨]]が大いに蓄積された。
 
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振り返ればこの不況は重篤であったが、当時は[[景気循環]]の中のありふれた[[リセッション]]であると見誤り不良債権を解消する根本的な対策を怠ったのが政策上の失敗と考えられている。
 
==== 関東大震災 ====
[[1923年]]に発生した[[関東大震災]]で決済不能となった手形については[[モラトリアム]]令が出され、のちに[[日本銀行|日銀]]が手形の[[割引|再割引]]を行い([[震災手形]])、決済困難な手形に流動性を付与することで経済活動の停滞を防ぐべく対応を取った([[日銀特融]])。しかし、持ち込まれた多くの手形の中から震災手形としてスタンプを捺すものを選別する場面において、真に震災の被害を受けて当座の支払いに困窮したものは同時に生産手段や担保となる資産も喪失していることが多くリスクが大きいとして敬遠され、一方で被災の程度が軽く安全な物件が優先されたほか、折からの不況や投機の失敗で不良債権となった手形は一応の担保が確保されていることから、これらを再割引の対象として容れられることがあったと指摘されている<ref>[http://www.hi-ho.ne.jp/takayoshi/kyoko/taisho4.htm 震災手形による悪化]</ref>。。この過程で直接震災に関係ない手形が多数紛れ込む[[モラルハザード]]が発生し、戦後不況に起因する不良債権が根本的な解消を見ることなく残りつづけた。
 
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[[震災手形]]として再割引した手形の支払期限は2年とされたが、その内容は前述のように比較的安全なものと、上辺は安全を装っているが実際には投機の失敗でもはや回収の見込みのない悪質なものとがあった。1924年3月の受付期限までに日銀が割り引いた手形は予定を超える4億3千万円に達したものの、最初の数ヶ月は予想よりも早く決済が進んだ。しかし徐々に決済が滞るようになり、猶予期限が到来する頃には決済の進展がほとんど見られないまま2億円が未決で残り、金融の不安定要因となり「財界の癌」とも呼ばれたが、やむなく支払期限1年延長を2回繰り返し1927年9月まで猶予した。
 
==== 為替変動 ====
第一次大戦中の1917年に米国が金交換の一時停止を発表したのに追随して日本も事実上金交換を停止<ref>具体的には大蔵省令28号を出して暫時金輸出を許可制としたが、許可が出る事はなく、実質的に金輸出禁止となった。</ref>し、戦後に金本位制へ復帰([[金解禁]])する機会を窺った。しかし、戦後の経済混乱の中でその機会を見出せず、関東大震災の後の輸入超過を受けて、それまで旧平価(100円=49.875ドル)を維持していたものが1924年暮れには40ドルを割り込むまでになった。政府は財界の整理([[国際汽船]]・朝鮮銀行・台湾銀行の整理)を行い、経済状況を改善することで自然に為替が旧平価に戻るように企図したが、これを先読みした投機筋により1925年暮れには49ドル近辺まで急騰し、以後乱高下した。
 
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なお、金本位制に復帰するにあたり、大戦後の経済状況に応じたレート(新平価)で復帰した国もあり、例えばフランスは通貨を1/5に切り下げた。日本でも関東大震災後の円下落時の頃に一応の経済的安定を見て経済状況に応じた新平価(100円=40ドル前後)で復帰すべきとの意見もあったが、これは円の切り下げであって「国辱」であるという見方から、旧平価(同49.875ドル)での復帰を望む意見が大勢を占めた。また、平価は法律で規定されおり、これを改正するには議事の混乱を招く可能性があり変更は容易ではないと看做されていた。結局旧平価での復帰を志向して為替政策上も金利の調整や正貨現送の調整で為替を誘導したり、経済政策を経て間接的に誘導する([[加藤高明内閣]][[濱口雄幸]]蔵相の緊縮財政など)政策がとられた。しかし、緊縮財政が採られ、また円高が維持されたことから輸出が振るわず、[[デフレーション|物価が下落]]し日本国内の景気は悪化した。
 
==== 政界 ====
[[大正|大正期]]中期には[[憲政会]]と[[立憲政友会]]の二大政党があり、のちに成立した[[革新倶楽部]]を加えて[[護憲三派]]と言われた。1922年に立憲政友会の[[高橋是清]]が計画した[[内閣改造]]の内容を巡って内部で分裂が生じ、政権獲得を優先する[[床次竹二郎]]らが1924年に成立した[[清浦内閣]]を支持して、[[政友本党#立憲政友会分裂問題|立憲政友会を脱党]]して[[政友本党]]をうちたてた。このとき政友本党は最多数となって第一党となったが、[[超然内閣]]を支持したことから[[第15回衆議院議員総選挙|1924年の総選挙]]で敗北して議席を減らし、一方で立憲政友会は勢いを盛り返した。[[清浦内閣]]が倒れて護憲三派が[[加藤高明内閣]]を樹てた後、憲政会と立憲政友会の対立、立憲政友会と革新倶楽部の合同によって護憲三派が解体されて1925年8月に憲政会単独内閣となると、政友会と政友本党の間で和解の動きが現れ、特に1926年夏の[[朴烈事件]]を機にその傾向に拍車がかかった。同年末には後藤新平の斡旋で立憲政友会と政友本党の提携が成立したが、1927年2月に一転、立憲政友会の政権獲得阻止を図って憲政会と政友本党の提携(憲本提携)が秘密裏に成り、立憲政友会は孤立した。
 
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また、二党の政策も異なった。憲政会は穏健ないし協調外交政策を取り、経済的にも海外との交易を重視した。その基本となる金本位制への復帰(金解禁)を目指し、それを実現するために緊縮財政を志向した。一方の立憲政友会は積極外交政策を取り、中国東北部の権益を護るために軍事予算の増強を中心とした積極財政を志向した。また、軍事費確保のために[[借款]]を行う必要から金解禁には反対の立場を取った。
 
==== 軍縮 ====
[[1921年]]より開催された[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]にて、軍艦の保有を制限する[[ワシントン海軍軍縮条約|軍縮条約]]が結ばれた。これにより海軍の正面装備が削減され、特に造船分野では新造の需要が無くなった。これに対し政府からは造船企業に対して一定の補償金が支払われたが、海軍が最も多額の取引を行っていた鈴木商店は取引額を減じてダメージを被った。また、鈴木商店傘下の神戸製鋼も受注を減らして業績が悪化した。
 
=== 直前の状況 ===
[[1924年]][[6月]]に[[憲政会]]単独内閣として成立した[[加藤高明内閣]]は[[金解禁]]を指向し、[[加藤高明]]首相の急逝をうけて翌1925年1月に成立した[[第1次若槻内閣|若槻内閣]]もその方針を引き継いだ。この時憲政会は少数与党であり、議会運営に困難が予想された事から現状打開の為に総選挙に打って出る事を求める意見が党内からあがり、若槻に大命を降下させるよう取り計らった[[西園寺公望|西園寺]]もそれを期待した。だが若槻は選挙を渋り結局少数与党のままで議会運営に当たることとなった。
 
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だがその裏では、三党首会談で若槻が独断で政敵と妥協し、あまつさえ禅譲を約したことを快く思わない憲政会の有志が中心となって政権維持を図り、政友本党に接近して2月26日に提携がなった(憲本提携、または憲本連盟、憲本合同とも)。合同して事実上の新党となって次の[[大命降下|組閣の大命を受ける]]ことを企図し、仮にそれが適わないまでも政友本党が政権を取るように図り、立憲政友会へ政権が移ることを阻止するためであった。当然秘密を保つべきものであったが、憲政会幹部の不注意からこの提携の存在が露呈した。
 
== 三月の恐慌 ==
3月始めに憲本提携が暴露され、その目的が政権維持にあると判る<ref>先の三党首会談では立憲政友会に政権を譲ると合意していたにもかかわらずこのような策を弄するのは立憲政友会にとって許しがたい行為と映った。一方で憲政会側は禅譲の合意などしていないとシラをきった。</ref>と、立憲政友会は態度を硬化させた。田中は人を介して片岡に以後の協力が出来ない旨を伝え<ref name="sataka1995"></ref>、爾後立憲政友会は震災手形関係二法を政争の具として攻撃にまわった。この時、具体的に震災手形の内情を把握し、その情報を流して攻撃材料を提供したのは財界であるといわれる。
 
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<!--
<ref>この時、立憲政友会の吉植庄一郎は
* 政商を助けるために、国家の金を投入すべきでない
* 台湾銀行などの所有する震災手形の金額を示せ
* 銀行が潰れるたびに国家がいちいち救済するというのでは、自由競争の原理が壊れる
旨の主張をして法案に反対している。片岡も後にこれは一応の正義であると認めている。</ref>。 -->
 
早期の法案成立を目指す与党憲政会は震災手形の内情について少しずつ明らかにし、のちには貴族院において秘密懇談会を開いて具体的な内容と法案の真意を野党側に伝えて法案成立への協力を求めたが、この内情が報道機関に伝わり国民の知るところとなった<ref name="sataka1995">『失言恐慌 ドキュメント東京渡辺銀行の崩壊』</ref>。かねてより震災手形の内容について台湾銀行が多くの震災手形を持つこと、そして台湾銀行と鈴木商店の癒着ぶりが巷間でも噂されていたが、これが真実と分かり、かつ具体的な不良手形の額として震災手形2億円強のうち台湾銀行が約1億円で、その7割を鈴木商店関連のものが占めていることが明らかとなり経済的危機が一層の真実味をもって受け取られ、円高による景気低迷と相まって不安は一層増した<ref name="sataka1995"></ref>。
 
=== 片岡蔵相の失言 ===
3月14日、[[衆議院]][[予算委員会]]にて審議の始まる直前、当日の決済のための資金繰りに困り果てた[[東京渡辺銀行]]の渡辺六郎[[専務取締役|専務]]らが午後1時半頃に[[大蔵次官]]の[[田昌]](でん あきら)に陳情し、「何らかの救済の手当てがなされなければ本日にも休業を発表せざるを得ない」と説明した。田次官は対応を片岡蔵相に相談すべく議場に赴いたが審議中で直接会えず、事情を書面にしたためて片岡蔵相に言付けた。一方で東京渡辺銀行は大蔵省からの助力を得る見込みが立たなかったので改めて金策に走り、[[第百銀行]]から資金を手当てすることに成功して当日の決済を無事に済ませた。その旨を大蔵省にも伝えたが、このことはすぐには次官に伝わらなかった。なお、渡辺専務は救済を求める意図で田次官に陳情したが、大蔵省の側では従前の調査で内情が悪い事を把握しており、休業の報告に来たものと理解していたという。実際に次官は予算委員会審議室に向かうに際して「銀行休業の善後策」につき相談する様に担当官を渡辺専務に紹介している。
 
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直後より「いまだ経営している銀行について破綻を宣告し、混乱を招いた」ことについて新聞報道は片岡の発言を「失言」と取り上げ、野党も「休業するつもりの銀行が金策に走るのは不自然」などと指摘して「失言」で銀行を破綻に追い込んだと攻撃した。しかし、片岡はあくまでも「14日に渡辺銀行が休業の報告に来た」とする態度を貫き、のちにこれを裏付ける同行専務直筆の顛末書を示して事態の収拾を図った。なお、この直筆の顛末書についても、事後に専務が書かされたのではないかという指摘もあるが、専務は何も語っていない。
 
=== 影響 ===
一定の規模を持った東京渡辺銀行が突如休業したことが新聞で伝えられると金融不安が広まり、関東を中心に取り付け騒ぎが起こった。当初は震災手形を多く所有していると目された銀行が取り付けに遭い、次第に関西にも飛び火して、中井銀行・[[左右田銀行]]・八十四銀行・中沢銀行・村井銀行が休業を余儀なくされた。これに対し日銀が21日より非常貸出を実施して沈静化に勤めた。一方で、野党側は蔵相の責任を問い、国会は紛糾して乱闘騒ぎにまで発展するが、法案自体は「台湾銀行の整理」という付帯決議をつけて23日に貴族院を通過し事態は沈静化した。そして26日に帝国議会は閉会した。
 
== 四月の恐慌 ==
3月の取り付け騒ぎは収まったものの、依然として台湾銀行が多くの震災手形を抱え、その他にも経営が危うい銀行が多いことに変わりはなかった。
 
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同時に[[現金]]の供給に全力を尽くし、片面だけ印刷し裏が白い急造の200円札<ref>[[二百円紙幣#乙号券|乙二百円券]]。造幣の速度を優先して片面のみの印刷に留めて裏が白いところから俗に「ウラシロ」と呼ばれた。一部は実際に預金者に支払われたが、裏面の印刷が無く作りも粗悪であったことから市中で行使しようとしたところ[[贋札]]と疑われ、加えて当該銀行券の発行が警察当局に周知されていなかったことから贋札行使の罪で逮捕された事例も伝えられる。この銀行券は事後に日本銀行が回収につとめ、市中にはほとんど残っていない。なお、同時に裏が白い急造の[[五十円紙幣#未発行紙幣|甲五十円券]]も刷られたがこちらは使用されなかった。</ref>の様式を急遽制定して500万枚以上刷らせ、銀行休業日にとどまらず日曜日である24日にも銀行に届けた。銀行は潤沢に供給された現金を店頭に積み、支払いに滞りが生じないことをアピールした。25日から500円以上の支払いを猶予するモラトリアムを施行して銀行を開き、取り付けに来た人は店頭に積まれた現金を見て安心したという。加えて、3週間のモラトリアム期間が終了する5月12日までに追加の200円券<ref>[[二百円紙幣#丙号券|丙二百円券]]。裏に赤の紋様が刷られ、俗に「ウラアカ」と呼ばれた。これは預金者に渡らずにそのまま回収、インフレの進行に備えて日本銀行に保管され、太平洋戦争終戦後の昭和20年8月16日以後に使用に供された。</ref>を750万枚追加し、モラトリアム終了後も混乱無く金融恐慌を沈静化させた。
 
== 事後処理 ==
休業した銀行は、そのまま他の銀行に救済合併されるものと整理後に営業を再開したものとがあったが、預金の額は削減された。
 
== 評価 ==
一般的な[[恐慌]]に対して、個人(預金者)の金融に対する不安から取り付け騒ぎが起きたが産業そのものが壊滅には至らなかった点が特異であると言われる。
 
前述のように金融システムの不備と、危機への対処を誤った点で[[バブル景気]]との類似点を挙げることがある。
 
== 影響 ==
この取り付け騒ぎに国民は小さな銀行に預金を預けていては危ないと考え、[[財閥]]系などの大銀行に対して預金を預けるようになった。そのため、大銀行(特に三井・三菱・住友・安田・第一=これらは五大銀行とも呼ばれる)に預金が集中するようになり、財閥の力はさらに強大化した。
 
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* [[高橋亀吉]]、森垣淑『昭和金融恐慌史』([[1993年]]、[[講談社学術文庫]])ISBN 4-06-159066-9 - 背景から事後の影響まで全般に網羅している。
* [[佐高信]]『失言恐慌 ドキュメント東京渡辺銀行の崩壊』([[1995年]]、[[現代教養文庫]])ISBN 4-04-377501-6。- 東京渡辺銀行関係者の視点からの記述も多い
** 佐高信『失言恐慌 ドキュメント銀行崩壊』([[2004年]]、[[角川文庫]])
** 佐高信『昭和恐慌の隠された歴史 蔵相発言で破綻した東京渡辺銀行』([[2012年]]、[[七つ森書館]])
* 大阪朝日新聞経済部編『昭和金融恐慌秘話』([[1999年]]、[[朝日文庫]])ISBN 4-02-261249-5 (2007年9月現在 絶版)
* 塩田潮『バブル興亡史 : <small>昭和経済恐慌からのメッセージ</small>』([[2001年]]、日経ビジネス人文庫)ISBN 4-532-19070-3。 (2007年9月現在 絶版)
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<!-- 参考文献が多すぎるので、どこまでが参考文献で、どこからがfurther readingなのか明らかにしてください -->
* [http://www.e.u-tokyo.ac.jp/~takeda/gyoseki/GAKU00-07.htm 現代日本経済史 7 武田晴人] - 政治的視点からの記述がある
* {{PDFlink|[http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/1867/1/A03890546-00-043010115.pdf 大正法制史序説 中村 吉三郎]}} - 大正期を概観
* {{PDFlink|[http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/1895/1/A03890546-00-047020001.pdf 昭和法制史稿 -昭和13年「国家総動員法の制定まで」中村 吉三郎]}} - 前後も含めて概観
 
* [http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/index.html 神戸大学新聞記事文庫] - 著作権の切れた新聞記事をデータベース化したもの。
** [http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/vlist/tega03.html 手形(貨幣及金融) 第3巻] - 手形に関する記事を集めたもの。1922年1月~1926年8月。
** [http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/vlist/tega04.html 手形(貨幣及金融) 第4巻] - 手形に関する記事を集めたもの。1926年9月~1930年4月。
** [http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00778629&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00778629 『片岡蔵相の失言から東京渡辺銀行が不安に陥る』 1927年3月15日付 大阪朝日新聞] -「失言」翌日の状況。片岡蔵相の主張が見える。
<!-- [[東京渡辺銀行]]は十四日午後一時、三十三万七千円の手形交換尻を決済する能わず、ついに支払いを停止せり、震災手形六百五十万円日本銀行提出済み、預金高約三千七百万円 -->
** [http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00778636&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00778636 『問題を起した蔵相 渡辺銀行に関する失言 遂に政治問題と化す』1927年3月16日付 大阪朝日新聞] - 東京渡辺銀行側の当日の事情が見える。
** [http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00778638&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00778638 『二通の顛末書 田次官から発表』1927年3月17日付 大阪朝日新聞] - 3月14日当日の状況について次官が認めた顛末書の内容が見える。
** [http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00778634&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00778634 『渡辺銀行の休業 自発的の休業か? 渡辺専務の発表と竹内常務の言葉は矛盾する』1927年3月16日付 大阪朝日新聞] - 蔵相と専務の発言の矛盾を指摘している。
** [http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00778631&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00778631 『破綻せぬ銀行を破綻したと声明 片岡蔵相口をすべらす』1927年3月15日付 大阪毎日新聞] - 片岡蔵相の主張と、大蔵次官が差し入れたメモの内容が見える。
** [http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00771764&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00771764 『金融恐慌後十年 (上)』1937年4月25日付 大阪毎日新聞] - 恐慌の10年後に事件を回顧する。データベースには(下)も併せて掲載されている。
 
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
* [http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_gra3-3.htm 「貨幣に見る近代日本金融史」 3-3 昭和2年金融恐慌] -{{リンク切れ|date=2013年5月}}
** 日本銀行金融研究所 貨幣博物館内『金融研究』巻頭エッセイ、片面印刷の乙二百円券(ウラシロ)と、使用されなかった片面印刷の五十円券のイメージがある
* [http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_51.htm 貨幣の散歩道 第51話 金融恐慌と裏白紙幣] -{{リンク切れ|date=2013年5月}}
** 日本銀行金融研究所貨幣博物館内 貨幣玉手箱
 
{{DEFAULTSORT:しようわきんゆうきようこう}}