「アーヴィング・クリストル」の版間の差分

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[[ニューヨーク市]][[ブルックリン]]にて[[正統派ユダヤ教]]徒の家庭に生まれ、[[バル・ミツワー]]を受ける。しかしながら、彼は自身の思想を[[ユダヤ教]]と無関係と主張している<ref>Kristol, Irving. ''Neoconservatism: The Autobiography of an Idea''. New York: The Free Press, 1995. ISBN 0-02-874021-1 p. 3-4</ref>。[[ニューヨーク市立大学シティカレッジ]] (CCNY) 在学中に[[トロツキズム|トロツキスト]]として活動する。[[1940年]]に同大学から歴史学の学士号を取得して卒業。在学中、トロツキストの集会でガートルード・ヒメルファーブと知り合い、1942年1月18日に彼女と結婚<ref>Kristol, 12-13.</ref>。[[1940年]]に[[第四インターナショナル]]のメンバーだったことを「誇りに思っている」と書いたのは[[1983年]]のことだった<ref>[http://www.amconmag.com/06_30_03/feature.html Flirting with Fascism], Laughland, John, ''The American Conservative'', 30 June 2003 (retrieved 17 December 2007)</ref>。[[第二次大戦]]中は、[[1941年]]から[[1944年]]まで機甲歩兵部隊の[[軍曹]]として[[ヨーロッパ]]で従軍。戦後は1年間[[マルセイユ]]に駐留した<ref>Kristol, 13-14.</ref>。
 
[[1947年]]から[[1952年]]まで『[[コメンタリー]]』誌の主筆を務め、英国発の文芸誌『[[エンカウンター (雑誌)|エンカウンター]]』誌の創刊に参加すると共に、[[1953年]]から([[1958年]]に友人でニューヨーク市立大学シティカレッジの同級生[[メルヴィン・J・ラスキー]]に地位を譲るまで)同誌の編集者を務める<ref>{{cite news |title = Stephen Spender Quits Encounter |publisher = The New York Times |date = 1967-05-08}}</ref>。[[1959年]]から[[1960年]]まで『レポーター』の編集者、[[1961年]]から[[1969年]]までベーシック・ブックス出版社の取締役副社長。[[1969年]]から[[1988年]]まで[[ニューヨーク大学]]経営大学院教授として社会思想を講義。民主党のタカ派を代表する政治家だった[[ヘンリー・M・ジャクソン]]が立ち上げた「[[民主的多数派のための連合]]」([[:en:Coalition for a Democratic Majority]])の設立にも参加し、同連合の副議長を務める。[[1988年]]から保守系[[シンクタンク]][[:en:American Enterprise Institute|アメリカ・エンタープライズ公共政策研究所]]のジョン・M・オーリン記念上席研究員。これらの地位や言論活動を通じてネオコン運動を軌道に乗せ、減税や軍事費増強、国外派兵、保守的価値観、米国憲法修正第1項(「[[言論の自由]]」条項)に保障された権利の縮小解釈を主張した。たとえば彼は「[[同性愛]]擁護は、実は米国憲法修正第1項に属するものでないと思う。それは、[[ポルノ]]の出版が米国憲法修正第1項に属するものではないのと同じだ」と発言したことがある<ref>Sex and God in American Politics: What Conservatives Really Think, Pol'y Rev., Summer 1984</ref>。
 
クリストルは、政治や文化を扱う言論誌『ザ・パブリック・インタレスト』や、国際関係論を扱う言論誌『ザ・ナショナル・インタレスト』を創刊した。彼はまた、[[1965年]]の創刊から[[2002年]]まで『ザ・パブリック・インタレスト』の編集委員をも務め(最初の共同編集委員は[[ダニエル・ベル]]、次の共同編集委員は[[ネイサン・グレイザー]])、[[1985年]]の創刊から[[2001年]]まで『ザ・ナショナル・インタレスト』の発行人でもあった。
 
[[1988年]]からアメリカ・エンタープライズ公共政策研究所の上席研究員。[[1972年]]から外交問題評議会の終身会員。『[[ウォールストリート・ジャーナル]]』寄稿者委員会会員ならびにナショナルアフェアーズ社会長。
 
クリストルは「記憶にある限り、私はいつも『ネオ』だった。ネオマルクシスト、ネオトロツキスト、ネオリベラル、ネオ保守主義者。ネオトロツキストやネオマルクシストだった時ですら、宗教上はネオ正統派だった。私は一生『ネオ』尽くしで終わることになるだろう」と自らを語る<ref>[http://www.pbs.org/arguing/reviews.html Review of Arguing the World (January 7, 1998)] (retrieved 29 December 2007)</ref>。
 
日本の政界にも影響を与えており、[[2004年]]4月29日にのちに[[価値観外交]]を掲げることになる当時自民党幹事長の[[安倍晋三]]はアメリカ・エンタープライズ公共政策研究所での講演でクリストルに敬意を表し、[[アメリカ同時多発テロ事件]]についての発言を引用した<ref>[http://www.aei.org/article/foreign-and-defense-policy/regional/asia/an-evolving-relationship/ An Evolving Relationship - Foreign and Defense Policy - AEI]</ref>。
 
== 著書 ==