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{{MedalGold|[[2009/2010 ISUグランプリファイナル|2009/10 東京]]|ペア}}
}}
'''申 雪'''(しん せつ、{{lang-zh|申 雪}}、{{lang-en|Shen Xue}}, シェン・シュエ、[[1978年]][[11月13日]] - )は、[[中華人民共和国|中国]][[ハルビン]]出身の[[女性]][[フィギュアスケート]]選手([[ペアスケーティング|ペア]])、コーチ。[[バンクーバーオリンピックにおけるフィギュアスケート競技|バンクーバーオリンピック]]金メダリスト、[[ソルトレイクシティオリンピックにおけるフィギュアスケート競技|ソルトレイクシティオリンピック]]及び[[トリノオリンピックにおけるフィギュアスケート競技|トリノオリンピック]]銅メダリスト。2002年、2003年、2007年[[世界フィギュアスケート選手権]]優勝。パートナーは夫の[[趙宏博]]。
 
== 経歴 ==
コーチの勧めでペアに転向その後1992年から[[趙宏博]]とペア競技に取り組み、1997年ごろから頭角を現し[[長野オリンピックにおけるフィギュアスケート競技|長野オリンピック]]では初出場でありながら5位という好成績を収めた。[[1999年世界フィギュアスケート選手権|1999年世界選手権]]では中国のペアとして初めて世界選手権のメダルを獲得した。
 
2001-2002シーズン、[[ソルトレイクシティオリンピックにおけるフィギュアスケート競技|ソルトレイクシティオリンピック]]では、五輪史上初の4回転スロージャンプに挑戦、申雪は着氷に成功したかに見えたが直後にブレードが滑って転倒、4回転スロージャンプの成功認定はならず、銅メダル獲得となった。その後の[[2002年世界フィギュアスケート選手権|世界選手権]]では中国のペアとして初めて優勝した。
 
2002-2003シーズン、[[2002/2003 ISUグランプリファイナル|グランプリファイナル]]を除く全ての大会で優勝を果たした。[[2003年世界フィギュアスケート選手権|世界選手権]]ではSPでサイドバイサイドのスピンでバランスを崩し2位となったがFSの公式練習で4回転スロージャンプで足首を負傷し、痛み止めを打ち演技に臨んだ。ノーミスでスタンディングオベーションを起こし、世界選手権2連覇を果たした<ref>ワールドフィギュアスケート No.11 P.20</ref>。
 
2003-2004シーズン、[[ISUグランプリシリーズ|グランプリシリーズ]]の採点方式が新採点方式(CoP)に移行。[[スケートカナダ]]では[[タチアナ・トトミアニナ]]/[[マキシム・マリニン]]組に敗れ2位となるが、当シーズンよりISUグランプリシリーズに組み込まれた[[中国杯]]では優勝。[[2003/2004 ISUグランプリファイナル|グランプリファイナル]]ではスケートカナダで敗れたトトミアニナ/マリニン組に18.78の大差をつけ3度目の優勝。[[2004年世界フィギュアスケート選手権|世界選手権]]のSPでは趙宏博がソロジャンプで転倒し4位。FSでは前年に引き続きスタンディングオベーションを起こし1位。最後の6点満点方式を採用となった大会で技術点で2個、芸術点では10個の6.0を獲得した<ref>ワールドフィギュアスケート No.14 P.26</ref>。
 
2004-2005シーズン、[[2004年スケートカナダ|スケートカナダ]]、[[2004年エリック・ボンパール杯|エリック・ボンパール杯]]、[[2004年ロシア杯|ロシア杯]]とグランプリシリーズは全勝。[[2004/2005 ISUグランプリファイナル|グランプリファイナル]]も優勝し、この4戦はSP、FSを通じ完全優勝を果たした。[[2005年四大陸フィギュアスケート選手権|四大陸選手権]]の練習時に趙宏博が左足のアキレス腱を痛め棄権した。怪我が治らないまま出場した[[2005年世界フィギュアスケート選手権|世界選手権]]ではSP3位となった。FSの6分練習には姿を見せたが、演技を行わず棄権をした<ref>ワールドフィギュアスケート No.18 P.17</ref>。
 
2005-2006シーズン、趙宏博が8月に[[アキレス腱断裂]]の重傷を負い、練習に復帰できたのは11月だったため[[2005/2006 ISUグランプリシリーズ|グランプリシリーズ]]の欠場を余儀なくされた<ref>ワールドフィギュアスケート No.22 P.47</ref>。[[トリノオリンピックにおけるフィギュアスケート競技|トリノオリンピック]]では金メダル候補と思われていたが、長年のライバルだったロシアのトトミアニナ/マリニン組、後輩である中国の[[張丹]]/[[張昊]]組に敗れ、念願であったオリンピックでの金メダル獲得はならなかった。
 
2006-2007シーズン、出場した全ての大会でSP、FSを通じて完全優勝した。[[2007年世界フィギュアスケート選手権|世界選手権]]のFSの演技終了後に趙宏博からプロポーズを受ける一幕もあった。
 
2007-2008シーズンより競技会には出場せず、アイスショーを中心に活動していたが2009-2010シーズン[[ISUグランプリシリーズ]]で国際大会に復帰した。[[2009年中国杯|中国杯]]、[[2009年スケートアメリカ|スケートアメリカ]]と優勝するなおこの優勝で[[ボフロスト杯]]を含め、グランプリシリーズ7大会を制した初めての選手となった。[[2009/2010 ISUグランプリファイナル|グランプリファイナル]]では自らが持つ国際スケート連盟主催大会スコアの最高記録を塗り替え、史上最多6回目の優勝を果たした。[[バンクーバーオリンピック]]ではSP76.66点、FS139.91点、合計216.57点というパーソナルベストを記録し、ロシア勢の13連覇を阻んで金メダルを獲得した。
 
2010年2月に現役引退を発表した。2010年8月に自らが主催したアーティストリー・オン・アイスで海外のスケーターも招き、結婚式を行った<ref>[http://www.ifsmagazine.com/articles/32474-xue-shen-and-hongbo-zhao-one-final-bow Xue Shen and Hongbo Zhao]</ref>。