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時間が遡るが、范雎は白起があまりに功績を挙げるので、恐れて白起が趙の首都・[[邯鄲市|邯鄲]]を攻めようとするのを止めさせた。その後、昭襄王に讒言して白起を誅殺させた。([[白起]]の項も参照)
 
その後任として范雎をかくまってくれた恩人の鄭安平を推挙したが、その鄭安平は2万の兵と共に趙へ降ってしまった。さらに范雎を昭襄王に推挙してくれた王稽は他国と通じた罪で誅殺された。これらのことで范雎は憂えたが、昭襄王の信頼は変わらず、また推挙者が罪を犯したことによる[[連座]]も不問にされた。
 
この時に、遊説家の[[蔡沢]]が范雎に[[商鞅]]・[[呉起]]・[[文種]]・[[伍子胥]]などのことを例に挙げ、「貴方様がこれらの人とどれほど違いましょうか」と、自らの手腕で国を隆盛させた時の王が健在中は贔屓にされるが、王の代が変れば贔屓により鬱積していた不満が出てきたりなどで悲劇的な末路を描くだろう(月満つれば則ち虧く)、と長く権力の座にあることの危うさを説き、[[范蠡]]に倣って致仕(引退)することを勧めた。范雎はこの言を入れて致仕し、後任の宰相に蔡沢が就いた。天下に覇を唱えんとする国の臣下最高位から潔く引いたが、范雎は商鞅達のような末路を辿らずに済んだ。そして秦はその後も、范雎が築いた方針を礎に覇業を順調に進めたのである。
 
==死についての異説==
上述のとおり、『[[史記]]』によれば、范雎は致仕することで生涯を全うすることができたとある。だが[[始皇帝]]時代の[[睡虎地秦簡|睡虎地秦墓]]11号墓より出土した『編年記』の昭王五二52年([[紀元前255年]])の記述には「王稽・張禄(=范雎)死す」とあり、これによれば范雎は王稽に連座して処刑されたと推測される<ref>[[佐藤信弥]]『中国古代史研究の最前線』([[星海社]]新書、[[2018年]])252頁。</ref>。
 
==伝記資料==
[[司馬遷]]『[[史記]]』巻79「范雎蔡沢列伝」
 
==脚注==