「福江藩」の版間の差分
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'''福江藩'''(ふくえはん)は、[[江戸時代]]の[[肥前国]]において、[[五島列島]]全域を治めた[[藩]]。'''五島藩'''(ごとうはん)とも呼ばれる。藩の成立から[[版籍奉還]]まで[[外様大名]]の[[宇久氏|五島
== 略史 ==
[[文治]]3年([[1187年]])、[[平家盛]]([[平忠盛]]次男、[[平清盛]]の異母弟)が宇久島に上陸し、宇久姓を名乗る。[[観応]]2年([[1351年]])、[[宇久覚 (南北朝時代)|宇久覚]]が宇久より福江島岐宿に移り、[[天正]]15年([[1587年]])、宇久純玄(すみはる)が五島姓へと改める。藩の成立は江戸時代初頭の[[慶長]]8年([[1603年]])に、初代藩主・[[五島玄雅]]([[五島純玄]]の嗣子)が[[徳川家康]]に謁し、1万5千余石の所領を認める朱印状を下賜されたことに始まる。
第2代藩主・[[五島盛利|盛利]]は、玄雅の養子として慶長17年([[1612年]])にその
第4代藩主・[[五島盛勝|盛勝]]は幼少で藩主となり、[[寛文]]元年([[1661年]])、その後見役で叔父の[[五島盛清|盛清]]に富江領3000石が分知された。この地は[[捕鯨]]が盛んで藩財政の基盤となっていた。しかし富江領成立直後から福江領有川村(現在の[[南松浦郡]][[新上五島町]])と富江領魚目村(新上五島町)の漁民の間で、流血にまで至る漁業権問題が発生した。幕府の仲介により[[元禄]]2年([[1689年]])、入会制度が成立して問題は解消した。その後、捕鯨による利潤で藩財政は潤うこととなった。
捕鯨で潤っていた藩財政も、江戸時代後半になると度重なる飢饉により逼迫することとなった。このため、第6代藩主・[[五島盛佳|盛佳]]は領内の労働人口を把握して確保するため、[[享保]]6年([[1721年]])より「人付け改め」と呼ばれる徹底した人身把握政策を開始し、各世帯の家族数・年齢・世帯主との続柄・出自・身分を細かく[[人付帳]]に記載した。
第7代藩主・[[五島盛道|盛道]]は[[宝暦]]11年([[1761年]])、「三年奉公制」と呼ばれる藩政史上最大の悪制を開始した。これは領民の長女を除く娘が16歳に達すると福江の武家へ3年間無給で奉公に出されるといういわば奴隷制度に近いものであった。3年の奉公の後、里に帰り結婚するのであるが、離婚すると再度、3年間奉公に出された。米5石または銀300匁を藩に差し出せば免除されるという抜け道もあったが、相当に裕福な領民でなければ捻出できる額ではなく、
[[嘉永]]2年([[1849年]])、幕府より築城の許可を富江藩主・五島盛貫が受領し、第10代藩主・[[五島盛成]]が着工した。[[文久]]3年([[1863年]])、第11代五島藩主・[[五島盛徳|盛徳]]によって、日本で最も新しい城として[[石田城]]が竣工した。
[[明治]]4年([[1871年]])、[[廃藩置県]]により福江県となる。のち、長崎県に編入された。明治2年(1869年)に旧藩主・五島家は[[華族]]に列し、明治17年(1884年)に[[子爵]]となった。盛徳の跡を継いだ[[五島盛主|盛主]]には男子がなかったが、旧[[新発田藩]]主家の[[溝口直溥]]の十六男[[五島盛光|盛光]]を養子に迎えることで無事に家を存続させた。しかし盛光の後継者だった[[五島盛輝|盛輝]]は[[昭和]]20年([[1945年]])[[8月9日]]に[[長崎市]]で[[長崎市への原子爆弾投下|原子爆弾]]に被爆したことが原因で[[9月2日]]に卒去した。
== 歴代藩主 ==
;五島
外様 1万5000余石→1万2000余石→1万5000余石
#[[五島玄雅|玄雅]]
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== 富江領(富江藩) ==
五島氏第23代
=== 歴代
;五島
[[表高家]] 3000石
#[[五島盛清|盛清]]
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== 脚注 ==
{{reflist}}
== 参考文献 ==
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{{デフォルトソート:ふくえはん}}
[[Category:福江藩|*]]
[[Category:藩]]
[[Category:肥前国 [[Category:五島氏|藩ふくえ]]
[[Category:長崎県の歴史]]
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