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== 地名の由来 ==
ジェームズ・W・フィリップスは、著書『ワシントン・ステート・プレイス・ネームズ』において、「1871年、[[ノーザン・パシフィック鉄道]]の{{仮リンク|[[ジョン・スプラーグ|en|John W. Sprague|label=}}]]がインディアンの言葉で『可愛らしい乙女』を意味するカラマ(calama)から名付けた。」としている<ref>James W. Phillips, Washington State Place Names, (Seattle, WA: University of Washington Press, 1971), pg. 69</ref>。他の話として、ガブリエル・フランシェールが1811年にカラマ川の河口にあるインディアンの村について記述を残しており、その村がトゥラカラマーと呼ばれていたとしている<ref>Virginia Urrutia, ''They Came to Six Rivers: The Story of Cowlitz County'' (Kelso, WA: Cowlitz County Historical Society, 1998), pg 93</ref>。
 
== 歴史 ==
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カラマの町は[[ノーザン・パシフィック鉄道]]によって開発された。1870年5月に非公式に工事が始められた。同鉄道会社はカラマの町に積荷場、製材工場、カーショップ、円形機関車庫、転車台、ホテル、病院、商店、住宅を建設した。1870年の数ヶ月間で労働人口は約3,500人に達し、町にはテントや酒場、蒸留所、賭博場が新たに建った。さらに、鉄道会社の採用担当はサンフランシスコに赴いて中国人労働者を雇用した。[[中華街]]も同時にカラマに移転し、現在では「チャイナ・ガーデンズ」と呼ばれている<ref>Virginia Urrutia, ''They Came to Six Rivers: The Story of Cowlitz County'' (Kelso, WA: Cowlitz County Historical Society, 1998), pg. 93</ref>。1874年はじめには人口が5千人に達するほど発展していたが、1877年に本社がタコマへ移転すると700人まで減少した<ref name="historylink.org">{{Cite web|title=A group of Kalama residents meets to organize Port of Kalama on December 22, 1919.|url=https://www.historylink.org/File/9736|website=www.historylink.org|accessdate=2020-05-24}}</ref>。
 
カラマが非公式に法人化したのは1871年11月29日。翌年から1922年まで、カウリッツ郡の郡庁所在地であった。また、1883年からはコロンビア川を渡る[[ノーザン・パシフィック鉄道]]の鉄道連絡船が{{仮リンク|ゴーブル (オレゴン州)|en|Goble, Oregon|label=ゴーブル}}まで運行されていた。この連絡船は、[[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]]に鉄道橋ができる1909年までの間、この地域の重要な交通手段であった<ref>http://www.brian894x4.com/LewisandClarkExplorer.html | Active Short lines in the Pacific Northwest</ref>。改めて説明すると、カラマが創設されたのはノーザン・パシフィック鉄道の{{仮リンク|[[ジョン・スプラーグ|en|John W. Sprague|label=}}]]の投資によるものであり、同社は1870年5月にカラマ川の河口近くに太平洋線の始点を設置することを決めてカラマを創設した<ref name="arm">{{cite book|last=Armbruster|first=Kurt|authorlink=|title=Orphan Railroad: The railroad comes to Seattle, 1953&ndash;1911|publisher=Washington State University Press|year=1999|location=Pullman, Washington|pages=27, 29, 44, 99|url=|doi=|id=|isbn=0-87422-186-2}}</ref>。この投資によって、同社は[[ピュージェット湾]]へ向けて北進する線路の建設を開始したが、結局同社の破産によって建設はタコマまでで中止された。工事は1871年4月におよそ800人によって開始され、5月には起工式がもたれた<ref name="arm" />。そして、タコマ-カラマ間の定期運行が1874年1月5日から開始された<ref name="arm" />。また、ポートランド-ハンターズ線もほぼ同時期に完成し、1883年の秋にはノーザン・パシフィック鉄道の大陸横断完工式典が[[モンタナ州]][[ヘレナ (モンタナ州)|ヘレナ]]で開催された。さらに翌年10月には線路3本、長さ110mの鉄道連絡船が[[コロンビア川]]での運行開始25周年を達成した<ref name="arm" />。ハンターズ<ref name="OGN">{{cite book|last=McArthur|first=Lewis A.|authorlink=Lewis A. McArthur|author2=[[Lewis L. McArthur]]|title=[[Oregon Geographic Names]]|origyear=1928|edition=Sixth|year=1992|publisher=[[Oregon Historical Society]] Press|location=[[Portland, Oregon]]|isbn=0-87595-277-1|pages=431}}</ref>はゴーブルから1マイル南へ下ったサンディ島の南端に位置している。しかし、タコマでの強い潮の影響によって運航時間はしばしば超過しがちであったため、出発地はサンディ島北端のゴーブルへと変更された。この連絡船は客車であれば12両、貨車であれば27両を一度に輸送することができた<ref name="arm" />。
 
=== 歴史的建築物 ===