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| accessdate = 2008–02–28
| date = February 19, 2008
}}</ref>。さらに何人かの犠牲者の衣服から、高い線量の[[放射性物質]]が検出された。
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さらに何人かの犠牲者の衣服から、高い線量の[[放射性物質]]が検出された。
 
事件は人里から隔絶した山奥で発生し生還者も存在しないため、いまだに全容が解明されず、不明な点が残されている<ref name="guschin" /><ref name="matveyeva" />。当時のソ連の捜査当局は抗いがたい自然の力によって9人が死に至ったとし<ref name="guschin" />、事件後3年間にわたって、スキー客や探検家などが事件の発生した地域へ立ち入ることを禁じた<ref name="osadchuk" />。
 
ソ連を引き継いだ[[ロシア連邦]]の最高検察庁は2020年7月13日、雪崩が原因との見解を示した<ref name=sankei20200713>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/world/news/200713/wor2007130022-n1.html|title=60年前の謎“ディアトロフ峠事件” 「雪崩が原因」で結論 ロシア検察当局|work=産経ニュース|newspaper=[[産経新聞]]|date=2020-07-13|accessdate=2020-07-13}}</ref>。
 
== 事件発生まで ==
一行は男性8名女性2名からなり、[[スヴェルドロフスク州]]内のウラル山脈北部において[[スキー]]での[[トレッキング]]を計画していた。グループの多くはウラル科学技術学校 ({{ru|Уральский Политехнический Институт, УПИ}})、現在の[[ウラル工科大学]]の学生か卒業生だった。メンバーは次の通りである。
[[File:Фото членов тургруппы Игоря Дятлова.jpg|thumb|ディアトロフ峠事件の犠牲者の慰霊碑]]
# イーゴリ・アレクセーエヴィチ・ディアトロフ ({{ru|Игорь Алексеевич Дятлов}})、一行のリーダー、[[1936年]][[1月13日]]生まれ。
# ジナイダ・アレクセーエヴナ・コルモゴロワ ({{ru|Зинаида Алексеевна Колмогорова}})、[[1937年]][[1月12日]]生まれ。
# リュドミラ・アレクサンドロヴナ・ドゥビニナ ({{ru|Людмила Александровна Дубинина}})、[[1938年]][[5月12日]]生まれ。
# アレクサンドル・セルゲーエヴィチ・コレヴァトフ ({{ru|Александр Сергеевич Колеватов}})、[[1934年]][[11月16日]]生まれ。
# ルステム・ウラジーミロヴィチ・スロボディン ({{ru|Рустем Владимирович Слободин}})、1936年[[1月11日]]生まれ。
# ユーリー(ゲオルギー)・アレクセーエヴィチ・クリヴォニシチェンコ({{ru|Юрий (Георгий) Алексеевич Кривонищенко}})、[[1935年]][[2月7日]]生まれ。
# ユーリー・ニコラエヴィチ・ドロシェンコ ({{ru|Юрий Николаевич Дорошенко}}、1938年[[1月29日]]生まれ。
# ニコライ・ウラジーミロヴィチ・チボ=ブリニョーリ ({{ru|Николай Владимирович Тибо-Бриньоль}})、[[1935年]][[7月5日]]生まれ。
# セミョーン(アレクサンドル)・アレクサンドロヴィチ・ゾロタリョフ ({{ru|Семен (Александр) Александрович Золотарёв}})、[[1921年]][[2月2日]]生まれ。
# ユーリー・エフィモヴィチ・ユーディン ({{ru|Юрий Ефимович Юдин}})、1937年[[7月19日]]生まれ、[[2013年]][[4月27日]]没<ref>{{cite news |title={{ru|Умер последний дятловец}} |author={{ru|Дарья Кезина}} |url=http://www.rg.ru/2013/04/28/reg-urfo/yudin.html |newspaper=[[Rossiyskaya Gazeta]] |date=27 April 2013 |accessdate=27 April 2013}}</ref>。
 
一行の最終目的地は、事件発生現場から北に約10[[キロメートル|キロ]]の{{仮リンク|オトルテン|ru|Отортен}}山に設定されていた。そのルートは、事件当時の季節においては踏破難易度がきわめて高いと推定されたが、一行の全員が長距離スキー旅行や山岳遠征の経験を有しており、この探検計画に表立って反対するものはいなかった。
 
[[1月25日]]、スヴェルドロフスク州北部の中心地{{仮リンク|イヴデリ|en|Ivdel}}に一行の乗った列車が到着した。彼らは[[貨物自動車|トラック]]をチャーターしてさらに奥地に入り、イヴデリから約80キロメートル北方にある最後の有人集落、{{仮リンク|ヴィジャイ|ru|Вижай (Свердловская область)}}に到着。そして[[1月27日]]、いよいよヴィジャイからオトルテン山へ向け出発した。しかし翌日、ユーリー・ユーディンが持病の[[リウマチ]]の悪化から離脱、一行は9人になった。ユーディンと別れたあと、生前の一行と遭遇した人間は現在に至るまで見つかっていない。ここから先の一行の行動は、最後のキャンプ地で発見された日記やカメラに撮影された写真などを材料に推定されたものである。
 
[[1月31日]]、未開の原生林を北西方向に進んできた一行はオトルテン山麓に到達し、本格的な[[登山]]準備に入る一方で、下山までに必要と思われる食料や物資を取り分け、余剰分は帰路に備えて残置した。翌[[2月1日]]、一行はオトルテン山へ続く渓谷へと分け入った。適した場所で渓谷を北に越え、そこで[[キャンプ]]を張ろうとしていたようだが、悪天候と[[吹雪]]による[[視程|視界]]の減少によって方向を見失い、西に道を逸れてオトルテン山の南側にあるホラート・シャフイル山へ登り始めてしまった。彼らはやがて誤りに気づいたが、1.5キロメートルほど下方の森林地帯に入って風雪を凌ぐのではなく、何の[[シェルター|遮蔽物]]もない山の斜面にキャンプを設営することにした<ref name="osadchuk" />。木々の中でのキャンプ設営は容易だが、難ルートを踏破しトレッキング第3級の条件を満たす斜面での設営に決めたともされている。たった1人の生存者であるユーリー・ユーディンは、「ディアトロフは、すでに登った地点から降りることを嫌ったか、この際山の斜面でのキャンプ経験を積むことに決めたのではないか」と述べている<ref name="osadchuk" />。
 
== 捜索と発見 ==
一行が登山を終えてヴィジャイに戻り次第、ディアトロフが速やかに彼のスポーツクラブ宛に[[電報]]を送ることになっており、おそらく[[2月12日]]までには電報が送られてくるだろうと予想されていた。しかし事前にディアトロフがユーディンに、もう少し遠征が長引くかもしれないと話していたこともあり、2月12日が過ぎて連絡がなかったにもかかわらず、誰もこのことに特に反応しなかった。こうした遠征では数日の遅れはものだったためである。[[2月20日]]になってようやく、一行の親族たちの要請で、ウラル科学技術学校は[[ボランティア]]の学生や教師からなる最初の救助隊を送った<ref name="osadchuk" />。その後[[軍]]と[[警察]]が腰を上げ、救助活動は[[ヘリコプター]]や航空機を投入した大規模なものとなった。
 
[[2月26日]]、捜索隊がホラート・シャフイル山で、ひどく損傷して放棄されたテントを発見した。テントを発見した学生、ミハイル・シャラヴィンは「テントは半分に引き裂かれ、雪に覆われていました。中には誰もおらず、荷物はテントに置き去りにされていました」と述べている<ref name="osadchuk" />。調べによると、テントは内側から切り裂かれていた。8つないし9つの靴下の足跡、片足だけ靴を履いた足跡、そして裸足の足跡が、近くの森(谷の反対側、1.5キロメートル北東)に向かって続いていたが、500メートル進んだところで雪に覆われて見えなくなった。捜索隊は森のはずれの大きな[[ヒマラヤスギ]]の下で、下着姿で靴を履いていないユーリー・クリヴォニシェンコと、ユーリー・ニコラエヴィチの遺体、そして[[焚き火]]の跡を発見した。木の枝が5メートルの高さまで折られていたことは、彼らのうちの1人が木の上に登って、何か(おそらくキャンプ)を探していたことを示すものだった。捜索隊はさらにヒマラヤスギとキャンプの間で、ディアトロフ、ジナイダ・コルモゴロワ、そしてルステム・スロボディンの3人の遺体を発見した。遺体はそれぞれ木から300メートル、480メートル、630メートル離れた位置で別々に見つかり、その姿勢は彼らがテントに戻ろうとしていた状態で亡くなったことを示唆していた。
 
残り4人の遺体を探すのにはさらに2月を要した。残りの遺体は、ヒマラヤスギの木からさらに森に75メートル分け入った先にある渓谷の中で、4メートルの深さの雪の下から発見された。4人はほかの遺体よりまともな服装をしており、これはどうやら最初に亡くなったメンバーが、自分たちの服を残りの者たちに譲ったらしいことを示していた。ゾロタリョフはドゥビニナの人工毛皮のコートと帽子を被っており、同時にドゥビニナの足にはクリヴォニシェンコのウールのズボンの切れ端が巻かれていた。
 
== 捜査 ==
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5月に発見された4人の遺体の検死は事情が違った。彼らのうち3人が致命傷を負っていたのである。チボ=ブリニョールの遺体は頭部に大きな怪我を負っており、ドゥビニナとゾロタリョフの両名は肋骨をひどく骨折していた。ボリス・ヴォズロジデンヌイ博士 (Dr. Boris Vozrozhdenny) は、このような損傷を引き起こす力は非常に強いものであり、[[交通事故]]の衝撃に匹敵するとしている。特筆すべきは、遺体は[[外傷]]を負っておらず、あたかも非常に高い圧力を加えられたかのようであったことと、ドゥビニナが舌を失っていたことであった<ref name="osadchuk" />。当初、[[先住民]]の[[マンシ人]]が、彼らの土地に侵入した一行を襲撃して殺害したのではないかとする憶測も流れたが、現場に一行の足跡しか残っておらず、至近距離で争った形跡がないという状況から、この説は否定された<ref name="osadchuk" />。
 
気温が摂氏マイナス25度から30度ときわめて低く、嵐が吹き荒れていたにもかかわらず、遺体は薄着だった。彼らの内の何人かは片方しか靴を履いておらず、同時にその他の者は靴を履いていなかったか、靴下しか履いていなかった。何人かの足は、先に亡くなった者の衣服を引き裂いたらしい衣服の切れ端で巻かれていた。低体温症による死亡のうち、20%から50%はいわゆる[[矛盾脱衣]]と関連があり<ref>{{cite journal|pmid=541627 | volume=24 | issue=3 | title="Paradoxical undressing" in fatal hypothermia | year=1979 | month=July | journal=J. Forensic Sci. | pages=543–53}}</ref>、これは通常、人が[[失見当識]]状態や混乱状態、好戦的な状態に陥るような中程度から重度の低体温症のときに起こる。おそらくこれが彼らが服を脱いだ理由であり、服を脱げば脱ぐほど、身体から熱を失う速度は早まったのだろうと考えられる<ref>{{cite journal |title=The word: Paradoxical undressing – being-human |year=2007 |author=New Scientist |journal=New Scientist |url=http://www.newscientist.com/channel/being-human/mg19426002.600-the-word-paradoxical-undressing.html |accessdate=2008-06-18}}</ref><ref name="pmid541627">{{cite journal |author=Wedin B, Vanggaard L, Hirvonen J |title="Paradoxical undressing" in fatal hypothermia |journal=J. Forensic Sci. |volume=24 |issue=3 |pages=543–53 |year=1979 |month=July |pmid=541627 |doi= |url= }}</ref>。
 
=== 事件の原因 ===
[[超常現象]]から軍の[[秘密兵器]]実験に至るまで(後述)、事件を様々さまざまな原因と結びつけようとする説が持ち上がったが、なかでも有力な説明のひとつとみなされているのが[[雪崩]]である<ref name="Skeptoid Podcast July 2008">{{cite web|last=Dunning|first=Brian|title=Mystery at Dyatlov Pass|url=http://skeptoid.com/episodes/4108|work=Skeptoid|accessdate=1 September 2012}}</ref>。
 
この説に基づくシナリオのひとつは、押し寄せてきた雪が夜のうちにテントを潰し、メンバーはパニックに陥ったというものである。一行はテントを切り裂いて逃げ出したが、靴や余分な衣服を雪崩で失ってしまった。氷点下の中で湿った雪に覆われると、15分以内に極度の疲労や低体温症による意識喪失が起こり、生存に関わる危機を招く<ref name="Hypothermia Table at UMN">{{cite web|last=Schomberg|first=Jessie|title=Hypothermia Prevention: Survival in Cold Water|url=http://seagrant.umn.edu/coastal_communities/hypothermia#time|work=Minnesota Sea Grant|publisher=University of Minnesota|accessdate=1 September 2012}}</ref>。チボ=ブリニョール、ドゥビニナ、ゾロタリョフ、そしてコレヴァトフは、自分たちが人里離れた場所にるにもかかわらず、助けを求めて移動し、渓谷に滑落した。彼らのうち3人の遺体がひどい骨折を負っており、かつ彼らが渓谷の中で4メートルの深さのところに横たわっていたのも、彼らが滑落したことの証左となしうる。
 
一方で、雪崩は傾斜30度以上で発生することが多く、この一帯は傾斜15度で雪崩の起こりやすい地域ではないという主張はある<ref name="Curious World Q&A">{{cite web|title=Dyatlov Pass – Some Answers|url=http://www.aquiziam.com/dyatlov_pass_answers.html|work=Curious World|publisher=Curious Britannia Ltd.|accessdate=1 September 2012|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121004234442/http://aquiziam.com/dyatlov_pass_answers.html|archivedate=2012年10月4日|deadurldate=2017年9月}}</ref>。捜査当局がキャンプ地から続く足跡を見たことは、雪崩説を否定する根拠になる。さらに彼らから放射線が検出された謎や、遺体から眼球や舌が喪失していた点も雪崩だけでは解明できない
捜査当局がキャンプ地から続く足跡を見たことは、雪崩説を否定する根拠になる。さらに彼らから放射線が検出された謎や、遺体から眼球や舌が喪失していた点も雪崩だけでは解明できない。
 
[[ジャーナリスト]]らは、入手可能な死因審問の資料の一部が、次のような内容であると報告している。
* 一行のメンバーのうち、6人は低体温症で死亡し、3人は致命的な怪我を負って死亡した。
* 9人以外に、ホラート・シャフイル山にほかの者がいた様子も、その周辺地域に誰かがいた様子もなかった。
* テントは内側から切り開かれていた。
* 一行は、最後に食事を摂ってから6 - 8時間後に死亡した。
* キャンプに残された痕跡は、彼らが自ら進んで徒歩でテントから離れたことを示していた。
* 先住民のマンシ人が一行を襲撃したという説を払拭するために、ボリス・ヴォズロジデニヤ博士は、3人の遺体が負った致命傷はほかの人間によるものではないとし、「非常に強い衝撃によるものであり、(その証拠に)遺体の[[軟部組織]]は何ら損傷を受けていなかった」と述べた<ref name="osadchuk" />。
* 何人かの犠牲者の衣服に、高い線量の[[放射能汚染]]が認められた<ref name="osadchuk" />。
* 発表された資料には、メンバーの内臓器官の状態に関する情報が含まれていない。
 
当局の最終的な調査結果は、全員が抗いがたい自然の力によって死亡したというものであった<ref name="guschin" />。死因審問は1959年5月に公式に終了し、「犯人はいない」と結論した。資料は[[機密]]文書保管庫に送られ、1990年代になってようやくコピーが公開されるようになったが、いくつかの資料が失われていた<ref name="osadchuk" />。
 
==== 事件を巡る議論 ====
研究者の中には、捜査当局が以下のような事実を見落としたか、意図的に無視したと主張している者もいる。
 
* のちに[[エカテリンブルク]]に拠点を置くディアトロフ財団(下記参照)の理事長となる、当時12歳のユーリー・クンツェヴィチ ({{ru|Юрий Кунцевич}}) は、一行のメンバーたちの葬式に出席しており、彼らの肌の色が「濃い茶褐色」になっていたと回想している<ref name="osadchuk" />。
* いくつかのメンバーたちの衣類(ズボン2着とセーター)が高い線量の放射能で汚染されていた。
* 事件のあった夜、事件の発生地点から南に50キロメートル離れた場所にいた別のトレッキング客の一行が、北(おそらく、ホラート・シャフイル山の方角)の夜空に奇妙なオレンジ色の光球を目撃したと報告している<ref name="osadchuk" />。同様の光球は、1959年2月から3月にかけて、イヴデリとその隣接する地域で、それぞれ無関係の目撃者(気象・軍関係者を含む)によって目撃されている<ref name="osadchuk" />。これらは後に、[[R-7 (ロケット)|R-7]][[大陸間弾道ミサイル]]を発射した光であったことが、エフゲニー・ブヤノフ ({{ru|Евгений Буянов}}) によって証明されている<ref>{{cite web|url=http://www.alpklubspb.ru/ass/dyatlov_07.htm |title=The mystery of "fireballs" resolved (ru) |publisher=Alpklubspb.ru |date= |accessdate=2012-11-16}}</ref>。
* 一部の報告は、軍がこの地域を(何らかの目的で)密かに利用し、そのことの隠蔽に取り組んできたのではないかという憶測につながる大量の金属くずが、この地域に置かれていたことを示唆している。
* ディアトロフ一行の最後のキャンプ地は、[[バイコヌール宇宙基地]](ここから、R-7大陸間弾道ミサイルの試験発射が何度か行われた)から、[[ノヴァヤゼムリャ]]のチェルナヤ・グバ(ソビエト連邦内の主要な[[核実験場]]だった)に直接通じる道の途上に位置していた。
* テント内に残されたカメラのフィルムが現像された。彼らの姿を映したものが多数を占めたが、最後の1枚が判別不可能ながら「光体」のようなものであった。
*アメリカの[[ドキュメンタリー映画]]監督ドニー・アイカーは著作『死に山』において、現場のドーム状かつ左右対称の地形はヘアピン渦現象と呼ばれる特異な気象現象が起こるには理想的な環境であり、繰り返し起こった[[竜巻]]による強風と[[低周波音]]に晒されて一行がパニックに陥りキャンプを飛び出し、凍死や転落死に至ったのではないかと推測している。事件現場の近くには核実験場があるが、核ミサイルによる被ばくなら通常の2倍程度の放射線量では済まず、その程度の量なら大気汚染でもあり得ること(実験場から放射線が届いた可能性も)、また日焼けについても長時間雪原で日光に晒されていれば起こり得るとしている。
 
== その後 ==
[[1967年]]、スヴェルドロフスク州の[[著述家]]でジャーナリストのユーリー・ヤロヴォイ ({{ru|Юрий Яровой}}) は、この事件にインスピレーションを受けた小説『最高次の複雑性 (''Of the highest rank of complexity'', ''{{ru|Высшей категории трудности}}'')<ref>{{ru|Яровой Юрий: ''Высшей категории трудности'', Средне-Уральское Кн. Изд-во, Свердловск}}, 1967 (Yarovoi, Yuri: ''Of the highest rank of complexity'', Sredneuralskoye knizhnoye izdatelstvo, Sverdlovsk, 1967){{Verify credibility|date=April 2009}}</ref>を出版した。ヤロヴォイはディアトロフ一行の捜索活動や、捜査の初期段階において公式[[カメラマン]]として関与しており、事件に対する見識を有していた。小説は事件の詳細が秘匿されていたソビエト時代に書かれ、ヤロヴォイは当局の公式見解以外のことや、当時すでに広く知られていた事実以外のことを書くことは避けた。小説は現実の事件と比較すると美化されており、一行のリーダーだけが死亡する結末など、よりハッピーエンドになるよう書かれている。ヤロヴォイの知人によると、彼はこの小説の別バージョンをいくつか書いたようであるが、いずれも[[検閲]]で出版を拒否された。[[1980年]]に彼が亡くなって以降、彼の持っていた写真や原稿などの資料はすべて失われてしまった。
 
[[1990年]]になると、事件の詳細の一部が出版物やスヴェルドロフスク州の地元メディアで公にされるようになった{{citation needed|date=April 2012}}。そうした最初の出版物の著者の1人が、アナトリー・グシチン ({{ru|Анатолий Гущин}}) である。グシチンは、死因審問のオリジナルの資料を調査し出版物に使うことに、警察当局が特別許可を出したと報告している{{citation needed|date=April 2012}}。彼は、事件の物品目録の中で言及されていた謎の「エンベロープ (envelope)」などに関する多数のページが、資料から消されていたことに気づいた。同じころ、いくつかの資料のコピーが、ほかの非公式な研究者の間に出回り始めた{{citation needed|date=April 2012}}。グシチンは、著書『国家機密の価値は、9人の生命 (''The Price of State Secrets Is Nine Lives'', ''{{ru|Цена гостайны – девять жизней}}'')の中で、調査結果をまとめている<ref name="guschin">{{ru|Гущин Анатолий: ''Цена гостайны – девять жизней'', изд-во "Уральский рабочий", Свердловск}}, 1990 (Gushchin Anatoly: ''The price of state secrets is nine lives'', Izdatelstvo "Uralskyi Rabochyi", Sverdlovsk, 1990){{Verify credibility|date=April 2009}}</ref>。一部の研究者は、この本の内容が「ソビエト軍の秘密兵器実験」説に入れ込み過ぎていると批判したが、本は[[超常現象]]への関心を刺激し、公の議論を沸き起こした。実際、30年間口を閉ざしていた人々が、事件に関する新たな事実を報告したのである。
 
そうした中の1人が、1959年に公式の死因審問を率いていた警察関係者、レフ・イヴァノフ ({{ru|Лев Иванов}}) であった。1990年の彼の著書<ref name="ivanov">{{ru|Иванов Лев: "Тайна огненных шаров", "Ленинский путь", Кустанай, 22–24 ноября 1990 г}}. (Ivanov, Lev: "Enigma of the fire balls", ''Leninskyi Put'', Kustanai, Nov 22–24 1990){{Verify credibility|date=April 2009}}</ref>によれば、当時の捜査チームは事件を合理的に説明することが出来できなかったうえ、地域の高級官僚から、死因審問を中止して捜査チームが見た飛行する球体に関する資料を機密にするよう、直接指示を受けたというのである。イヴァノフ個人は、何らかの[[超常現象]]──具体的に言えば[[UFO]]など──が起きたことを信じているという。
 
[[2000年]]、地元[[テレビ局]]がドキュメンタリー番組『ディアトロフ峠の謎 (''The Mystery of Dyatlov Pass'', ''{{ru|Тайна Перевала Дятлова}}'')を制作した。制作にあたっては、エカテリンブルク在住の著述家で、事件をモデルにドキュメンタリー仕立てのフィクション小説<ref name="matveyeva">{{ru|Матвеева Анна: "Перевал Дятлова", "Урал" N12-2000, Екатеринбург}} (Matveyeva Anna: "Dyatlov pass", "Ural"#12-2000, Ekaterinburg) [http://magazines.russ.ru/ural/2000/12/ural5.html]{{Verify credibility|date=April 2009}}</ref>を執筆したアンナ・マトヴェーエワ ({{ru|Анна Матвеева}}) が協力した。この小説の大部分は、事件の公式資料や犠牲者たちの日記、捜索に携わった者のインタビューや、映画製作者が集めた資料の引用から成っており、おおまかな[[あらすじ]]は事件を解明しようと試みる現代に暮らすある女性(著者自身の[[オルター・エゴ|分身]])の、日常と考えを追うといった内容である。フィクション小説であるにもかかわらず、マトヴェーエワの著書は、公表されてきた情報源の中で最大級のものとして扱われている。また、事件の資料やその他の文書の写しが、熱心な研究者に向けてWebフォーラムで徐々に公開されはじめている<ref>{{cite web|url=http://pereval1959.forum24.ru/ |title={{ru|Перевал Дятлова: форум по исследованию гибели тургруппы И. Дятлова}} |publisher=Pereval1959.forum24.ru |date= |accessdate=2012-12-27}}</ref>。
 
エカテリンブルクでは、ユーリー・クンツェヴィチによってディアトロフ財団が、ウラル工科大学の助けを借りて設立された。財団の目的は、ロシア当局に対して事件の再調査を開始するよう求めることと、亡くなった者たちの記憶を保存するディアトロフ記念館を維持することである。
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=== ノンフィクション ===
* [[:en:Donnie Eichar|Donnie Eichar]] ''"Dead Mountain: <small>The Untold True Story of the Dyatlov Pass Incident</small>"'' Chronicle Books, 2014年10月 ISBN 978-1452140032
** 『死に山: <small>世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真相</small>』 ドニー・アイカー() 安原和見() [[河出書房新社]] 2018年8月 ISBN 978-4309207445
=== 小説 ===
* アレック・ネヴァラ=リー (Alec Nevala-Lee) の2012年の小説''City of Exiles''の中では、事件が重要な位置を占めているという設定である<ref>{{cite web|url=http://www.publishersweekly.com/978-0-451-23878-8|title=City of Exiles|publisher=Publishers Weekly|accessdate=February 2013}}</ref>。
* [[ギリシャ]]の小説家 Panayiotis Panagopoulos は、事件の舞台を[[オリンポス山]]の斜面に移した小説''To Perasma tou Ignatiou''(イグナティウス峠))』を執筆した<ref>The disappearence of the nine hikers. (in Greek) {{cite web |url=http://www.dete.gr/news.php?article_id=62198 |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2013年6月13日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131202222344/http://www.dete.gr/news.php?article_id=62198 |archivedate=2013年12月2日 |deadurldate=2017年9月 }}</ref>。
 
=== テレビ番組・映画・ゲーム ===
* ''ディアトロフ峠の謎'' {{ru|[http://shownewstv.ru/spetcial/3/_p0 ''Тайна перевала Дятлова'']}}: 2000年, TAU (、TAU(ウラル・テレビジョン・エージェンシー) (''{{ru|ТАУ – Телевизионное Агентство Урала, 2000г.}}'')。
* 『[[古代の宇宙人]]』 (シーズン3, 第10話: "Aliens and Evil Places")、[[ヒストリー・チャンネル]]
* テレビ番組『{{仮リンク|ダーク・マターズ: ツイステッド・バット・トゥルー|en|Dark Matters: Twisted But True}}』の2012年8月25日放送のエピソード "''Cold War, Cold Case''" の中で、事件について触れられている{{citation needed|date=September 2012}}。
* ロシアのトークショー番組 "Let Them Talk" の2013年春の2時間スペシャルで、事件が特集された。
* 映画『[[ディアトロフ・インシデント]]』、[[レニー・ハーリン]]監督作品。2013年2月28日公開<ref name="ACFE">{{cite web|title=Dyatlov Pass Incident, The|url=http://www.a-company-film.com/FilmDetails.aspx?id_Film=1885|publisher=A Company Filmed Entertainment|accessdate=2 April 2013}}</ref>。
* 『ホラート -ディアトロフ峠の惨劇-』:事件をベースに作られたアドベンチャーゲーム(PS4向け)。プレイヤーは不気味な雪山を探索しながら点在するメモを拾い集め、物語の謎に挑む。
* ドキュメンタリー系バラエティ番組『[[奇跡体験!アンビリバボー]]』2018年12月6日放送「謎を解け!真冬のミステリー2時間スペシャル  真冬のミステリースペシャル  ディアトロフ峠事件60年目の真実」
*『[[ダークサイドミステリー]] 「緊急報告!"死の山"ディアトロフ峠事件」』([[NHK BSプレミアム]] / 2019年8月29日放送)