「スターリングラード攻防戦」の版間の差分

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* [[12月19日]] - ソ連赤軍のマールイ・サトゥルン(小土星)作戦により西のチル川方面からの側面の圧迫が増しつつも、ドン軍集団は夜間には互いの照明弾が視認できる距離まで第6軍に近づいた。しかし、第6軍は一向に動こうとしなかった。しびれを切らしたマンシュタイン元帥は情報参謀アイスマン少佐を空路第6軍司令部に派遣し、救援に向かう「冬の嵐」(ヴィンター・ゲヴィッター)に呼応して包囲環の突破を図る「雷鳴」(ドンナー・シュラーク)作戦の実施を強く求めたが、ヒトラーの死守命令に忠実なパウルス司令官と、十分な補給があれば復活祭まで戦い続けられるとし、燃料の不足を言い立てて撤退に消極的な参謀長[[アルトゥール・シュミット|アルトゥール・シュミット少将]]に拒否される<ref group="注釈">ヒ トラーはこの作戦の成功によってスターリングラードへの回廊を確保して第6軍に補給を送り、ヴォルガへのくさびを維持するつもりだった。一方、第6軍の越冬が不可能であることを十分に知っていたマンシュタインは、せめて動ける将兵だけでも自軍に合流させようとし、ヴォルガの戦線維持はあきらめていた。</ref>。パウルスは心労から体調を崩し、第6軍の作戦指揮は実際にはシュミット参謀長が握っていた。第6軍が動かせる戦車は、わずか70両だった。
* [[12月20日]] - マンシュタインはパウルスに「雷鳴」実行を厳命したが、燃料不足で動けないと回答された。マンシュタインはさらにヒトラーに死守命令の変更を要請したが、パウルスの主張をヒトラーは追認し、変更を認めなかった。
* [[12月23日]] - マールイ・サトゥルン(小土星)作戦で南に進撃していたソ連赤軍第6軍に属するバダーノフ少将の第24戦車軍団がタツィンスカヤのドイツ空軍基地を襲撃した。ドイツ空軍の全輸送機の1割にあたる72機を戦車で破壊して飛行場を占領し、ただでさえ困難だったスターリングラードへの空中補給に打撃を与えた。一方、ドン軍集団は、一足先に拠点を確保した[[ロディオン・マリノフスキー|ロディオン・マリノフスキー中将]]の指揮する総予備のソ連[[親衛隊 (ソ連・独立国家共同体)|第2親衛軍]]に、第6軍の陣地まで48約50キロのムイシコワ川で進撃を完全に阻まれた。さらに第6軍が「雷鳴」を実行しないため、マンシュタイン元帥は作戦を中止し、以後はコーカサスのA軍集団の退路をロストフで封鎖して南方軍集団全体を殲滅に追い込もうとするソ連軍のサトゥルン([[土星]])作戦の阻止に努める。A軍集団の撤退は12月27日にヒトラーが許可し、最終的には危ういところで成功するが、もはや第6軍の救援は絶望的となった。
* [[12月24日]] - ドン軍集団の砲声や照明弾はしだいに遠ざかり、絶望的状況のなかで第6軍の将兵はささやかな補給品でクリスマス・イブを迎える。第16装甲師団の軍医中尉兼牧師で[[アルベルト・シュヴァイツァー]]博士の友人でもあったクルト・ロイバーは、ソ連軍から奪った地図の裏に木炭で聖母像を描き、『[[ヨハネの福音書]]』にある「光・命・愛」という言葉を書き添えた。疲れ果てて塹壕に戻った将兵たちは、妻子をしのび敬虔な祈りを捧げた。ロイバーは捕虜となった後、1944年1月に[[エラブガ]]の収容所で病死し、多くの手紙を送った妻子の待つ自宅に帰ることはなかったが、彼の描いた聖母像は最後の手紙とともに息子に届き、戦後になって「塹壕の聖母」(スターリングラードの聖母 [[:en:Stalingrad Madonna|Stalingrad Madonna]]とも呼ばれる)として、ベルリンの[[カイザー・ヴィルヘルム記念教会]]に飾られている。ドイツではスターリングラードから意気軒昂にメッセージを伝える将兵の声がラジオで放送された<ref group="注釈">放送された実際の音声。放送の最後には[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]の『[[われらが神は堅き砦]]』(Ein feste Burg ist unser Gott)BWV80 が流された。https://www.youtube.com/watch?v=jU51ax4j374</ref>が、それは実はベルリンのスタジオで録音されたものであった。一方、ソ連側はドイツ軍にむけ「スターリングラードでは7秒に一人ドイツ兵が死んでいる」と一日中ラジオで宣伝した。