「炬燵」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
Strassaboh (会話 | 投稿記録) |
|||
16行目:
=== 近代以前 ===
[[File:MET DP118791.jpg|thumb|江戸中期、炬燵で[[あやとり]]をする少女と女性([[鈴木春信]]画、1765年頃)]]
[[File:NDL-DC 1308429-Utagawa Kunisada-雪見八景 晴嵐.jpg|thumb|雪見八景 晴嵐([[歌川豊国]])<ref>https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1308429</ref>]]
[[画像:Edo_Kotatu.JPG|thumb|260px|江戸後期の炬燵(深川江戸資料館展示)]]
炬燵は中世[[室町時代]]に[[囲炉裏]]の上に[[櫓]]を組み、[[蒲団]]をかけた物に起源を求められる。
[[囲炉裏]]を床より下げ、床と同じ高さと蒲団を置く上段との二段の櫓を組んだ足を入れられる'''掘り炬燵'''となった。更に囲炉裏の周囲まで床より下げ、現在の掘り炬燵の座れる構造の'''腰掛け炬燵'''ができた。'''大炬燵'''と呼ばれる、近世[[江戸時代]]に大勢が入る炬燵に使われた。
寺院や武家では[[火鉢]]が客向けの暖房器具で、炬燵は家庭用であった。そのため「内[[武蔵坊弁慶|弁慶]]」という言葉と同様に、外では意気地がないが家庭中では威張り散らす人を「炬燵弁慶」と言う。▼
炬燵は日本では[[火鉢]]とともに冬には欠かせない暖房器具として発達した。電気炬燵が普及するまでは、熱源として[[木炭]]や[[炭団]](たどん、後に[[練炭]]、豆炭)などを用いた<ref name="s"/>。熾きた炭として紙や灰で[[酸素]]供給を減らし、補充間隔を延ばして使っていた。
江戸時代中期には'''置き炬燵'''が広まった{{R|mingu100}}。熱源部分に[[囲炉裏]]の代わりに火鉢を用いたものである。置き炬燵は掘り炬燵とは異なり、移動可能であることを特徴とする{{R|mingu100}}。江戸時代の炬燵の様子を描いた絵日記としては、[[石城日記]]が挙げられる。
▲寺院や武家では[[火鉢]]が客向けの暖房器具で、炬燵は家庭用であった。そのため「内[[武蔵坊弁慶|弁慶]]」という言葉と同様に、外では意気地がないが家庭中では威張り散らす人を「炬燵弁慶」と言う<ref name="koto">精選版 日本国語大辞典、デジタル大辞泉、コトバンク</ref>。[[越谷吾山]]の『[[物類称呼]]』には、 冬に老人がこたつから離れられないことを「炬燵弁慶」と言うとある<ref name="koto"/>。
=== 近代以後 ===
|