「フランス保護領カンボジア」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
校正
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集
参照エラー
87行目:
 
== フランス統治開始 ==
19世紀、カンボジア王国は、ベトナムの[[阮朝]]からの影響力が高まり、国の東部を脅かす一方で、[[アンコール遺跡|アンコール]]を含む西部の州を併合したシャム王国([[チャクリー王朝|ラタナコーシン朝]])の従属国となった。フランスが1862年にコーチシナ(現在のベトナム南部)に植民地を設立した後、カンボジアの国王ノロドムは王国のフランスによる保護国化を要請した。当時コーチシナの植民地総督であった{{仮リンク|ピエール=ポール・ド・ラ・グランディエール|fr|Pierre-Paul de La Grandière}}は、フランスの支配をベトナム全体に拡大する計画を実行しており、カンボジアをベトナムとシャムにおけるフランスの領土の間の緩衝材と見なしていた<ref>Philippe Franchini, ''Les Guerres d'Indochine'', tome 1, Pygmalion-Gérard Watelet, 1988, page 92</ref><ref>[[Pierre Montagnon]], ''La France coloniale'', tome 1, Pygmalion-Gérard Watelet, 1988, pages 146–147</ref>。
 
1863年8月11日、ノロドムはカンボジア王国をフランスが保護することを認める条約に署名した。条約の下で、[[カンボジア君主・国家元首一覧|カンボジアの君主制]]の存続が認められたが、権力の大部分は[[プノンペン]]に収容される統監に与えられた。また、フランスはカンボジアの外交および貿易関係を担当し、軍事的保護を提供することになっていた。フランスがカンボジアの[[バタンバン州|バッタンバン]]州を割譲し、タイが[[アンコール遺跡|アンコール]]を支配することを認めた後、サイアムは後に保護領を認めた<ref>Philippe Franchini, ''Les Guerres d'Indochine'', tome 1, Pygmalion-Gérard Watelet, 1988, page 92</ref><ref>[[Pierre Montagnon]], ''La France coloniale'', tome 1, Pygmalion-Gérard Watelet, 1988, pages 146–147</ref>。
 
== フランスの植民地支配 ==
107行目:
 
[[ファイル:Carte_politique_de_l'Indo-Chine_(...)Deloncle_François_btv1b53025089w.jpg|リンク=//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b4/Carte_politique_de_l%27Indo-Chine_%28...%29Deloncle_Fran%C3%A7ois_btv1b53025089w.jpg/200px-Carte_politique_de_l%27Indo-Chine_%28...%29Deloncle_Fran%C3%A7ois_btv1b53025089w.jpg|左|サムネイル|302x302ピクセル|フランス領インドシナの地図(1889年10月)]]
1904年、ノロドムが亡くなり、フランス人はノロドムの息子たちに王位を譲るのではなく、ノロドムの兄弟である[[シソワット]]に王位を譲った。シソワットはノロドム家の分家であり、ノロドム家より服従的で、親仏であった。同様に、ノロドムはフランスの支配に対するカンボジアの絶え間ない反乱の責任があると見なされていた。もう1つの理由は、ノロドムのお気に入りの息子であり、王位継承を望んでいたユカントール王子が、ヨーロッパへの旅行中に、占領下のカンボジアにおけるフランスの残虐行為について世論を巻き起こしたことである<ref>Maurice Zimmerman, [http://www.persee.fr/web/revues/home/prescript/article/geo_0003-4010_1907_num_16_87_6973 Traité du 23 mars 1907 avec le Siam], [[:en:Annales de géographie|Annales de géographie]], Année 1907, Volume 16, n°87, pp. 277–278, sur ''Persée.fr''</ref>。
 
その後、フランスは1902年と1904年に、シャムとの条約によって[[プリアヴィヒア州]]と[[チャンパーサック県]]をカンボジアに加え、バサック川を完全に支配することでカンボジア保護領の領土を拡大しながら支配を強化した。カンボジアが[[ストゥントレン州]]の領有権を主張する以前の1904年には、カンボジアが[[チャンパーサック]]を譲り受け、ストゥントレン州をフランス保護領ラオスから獲得するという交換が行われた。その後、[[バタンバン州]]と[[シェムリアップ州]]をめぐるフランスとシャムの領土紛争により、1904年に偶然にも[[トラート県]]がフランスに併合されることになった。
 
フランスとシャムは、1907年のフランス・シャム条約に基づいて領土交換を行うことに同意した。これにより、フランスは18世紀後半まで元々はカンボジア領だった[[バタンバン]]州と[[シェムリアップ]]州を獲得した。これらの州の獲得は、インドシナにおけるフランスの領土拡大の最終段階となった。また、シャムは後にこの地域のイギリスと協力することになった。彼らはフランスの無秩序な拡大とシャムの支配がインドシナの権力のバランスを崩すことを恐れていた<ref>Maurice Zimmerman, [http://www.persee.fr/web/revues/home/prescript/article/geo_0003-4010_1907_num_16_87_6973 Traité du 23 mars 1907 avec le Siam], [[:en:Annales de géographie|Annales de géographie]], Année 1907, Volume 16, n°87, pp. 277–278, sur ''Persée.fr''</ref>。
 
== フランス植民地時代の経済 ==
もともと、より重要なベトナムの植民地とシャムの間のフランスの緩衝地域として機能していたカンボジアは、当初、経済的に重要な地域とは見なされていなかった。植民地政府の予算は当初、主な歳入源としてカンボジアでの徴税に大きく依存しており、カンボジア人はインドシナのフランス植民地の中で1人当たりの税金を最も多く支払っていた。カンボジアにおけるフランス統治初期の貧しい、時には不安定な行政は、インフラと都市の成長がベトナムよりもはるかに遅く、村の伝統的な社会構造がまだ残っていることを意味した<ref name="Tyner2017">{{Cite book|last=Tyner|first=James A.|title=From Rice Fields to Killing Fields: Nature, Life, and Labor under the Khmer Rouge|date=2017|publisher=Syracuse University Press|location=Syracuse, New York|isbn=9780815635567|page=29|url=http://syracuseuniversitypress.syr.edu/fall-2017/from-rice-fields.shtml}}</ref>。
 
しかし、フランス・シャム戦争後にフランスの支配が強化されると、カンボジアの開発がゆっくりと進み、コメとコショウの収穫によって、経済の成長が可能になった。輸出を促進するために、特に[[バタンバン州|バッタンバン州]](西部)で土地の使用権を与えられた植民地の起業家によって、近代的な農業方法が導入された<ref name="Tyner2017">{{Cite book|last=Tyner|first=James A.|title=From Rice Fields to Killing Fields: Nature, Life, and Labor under the Khmer Rouge|date=2017|publisher=Syracuse University Press|location=Syracuse, New York|isbn=9780815635567|page=29|url=http://syracuseuniversitypress.syr.edu/fall-2017/from-rice-fields.shtml}}<cite class="citation book cs1" data-ve-ignore="true" id="CITEREFTyner2017">Tyner, James A. (2017). [http://syracuseuniversitypress.syr.edu/fall-2017/from-rice-fields.shtml ''From Rice Fields to Killing Fields: Nature, Life, and Labor under the Khmer Rouge'']. Syracuse, New York: Syracuse University Press. p.&nbsp;29. [[ISBN]]&nbsp;[[Special:BookSources/9780815635567|<bdi>9780815635567</bdi>]].</cite></ref>。
 
フランスの自動車産業が成長するにつれて、すでにコーチシナやアンナンにあるようなゴム農園がフランスの投資家によって建設され、運営された。経済の多様化は 1920 年代を通じて続き、トウモロコシや綿花も栽培された。経済の拡大と投資にもかかわらず、カンボジア人は依然として高い税金を払い続けており、1916年には減税を要求する抗議行動が勃発した<ref>Claude Gilles, ''Le Cambodge: Témoignages d'hier à aujourd'hui'', L'Harmattan, 2006, page 98</ref>。
125行目:
 
== クメール民族主義の出現 ==
ベトナムとは異なり、カンボジアのナショナリズムは、主に教育の影響が少ないためにフランス統治期間の多くの間、比較的静かなままであった。しかし、フランスで教育を受けたカンボジアのエリートの間では、西側の民主主義と自治の考え方、そしてフランスによる[[アンコール・ワット]]などのモニュメントの修復が、過去のカンボジアのかつての強力な地位に対する誇りと意識を生み出した<ref>[[:en:Philip Short|Philip Short]], ''Pol Pot anatomie d'un cauchemar'', Denoël, 2007, page 47</ref>。
 
教育現場でも、少数民族であるベトナム人が優遇されていることにカンボジア人学生の間で反発が強まっていた。1936年、ソン・ゴック・タインとパック・チュンは、フランス語の反植民地、時には反ベトナムの新聞としてナガラヴァッタ(Notre cité)の発行を開始した。1940年、タイに住むカンボジア人の間で、クメール・イッサラクを中心とする小規模な独立運動が展開され始めた。彼らは、母国で活動すれば処罰されることを恐れていた。
137行目:
「アジア人のためのアジア」という日本の呼びかけは、カンボジアのナショナリストの間で受容的な聴衆を見つけた。1942年7月、著名で政治的に活動的な仏教僧{{仮リンク|ヘム・チュー|en|Hem Chieu}}が植民地民兵に扇動的な説教をしたとして逮捕された後、ナガラヴァッタの編集者は彼の釈放を要求するデモを主導した。ヴィシー当局はすぐにデモ参加者を逮捕し、ナガラヴァッタの編集者の1人であるPach Choeunに終身刑を言い渡した。もう一人の編集者、{{仮リンク|ソン・ゴック・タン|en|Son Ngoc Thanh}}はプノンペンから[[東京]]に逃亡した。
 
アジアにおけるヨーロッパの植民地の問題は、[[カイロ会談|カイロ会議]]、[[テヘラン会談|テヘラン会議]]、[[ヤルタ会談|ヤルタ会議]]の3つの会議で、[[連合国 (第二次世界大戦)|ビッグ3]]の連合国の指導者、[[フランクリン・ルーズベルト]]、[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]、[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]によって議論されたものの1つである。イギリス最大の植民地であるの [[イギリス領インド帝国|インド植民地]]に関して、ルーズベルトは終戦までにその独立を認める宣言をチャーチルに非常に強く求めたが、チャーチルはその圧力に断固として抵抗した<ref>"Roosevelt and Stalin, The Failed Courtship" by Robert Nisbet, pub: Regnery Gateway, 1988</ref><ref>"[[:en:Churchill's Secret war|Churchill's Secret war]]", by [[:en:Madhushree Mukherjee|Madhushree Mukherjee]], Pub: Basic Books, 2010></ref>。
 
アジアにおけるイギリス以外の植民地に関しては、ルーズベルトとスターリンはテヘランで、フランスとオランダが戦後アジア支配に復帰しないことを決定した。しかし、終戦前のルーズベルトの早すぎる死に続き、ルーズベルトの想定とは大きく異なる展開が続いた。イギリスはアジアにおけるフランスとオランダの支配の復帰を支持し、この目的のためにイギリスの指揮下でインド兵の派遣を組織した<ref>"Roosevelt and Stalin, The Failed Courtship" by Robert Nisbet, pub: Regnery Gateway, 1988</ref>{{要ページ番号|date=August 2020}}<ref>"[[:en:Churchill's Secret war|Churchill's Secret war]]", by [[:en:Madhushree Mukherjee|Madhushree Mukherjee]], Pub: Basic Books, 2010></ref>{{要ページ番号|date=August 2020}}。
 
戦争の最後の数ヶ月間、日本は現地の支持を得ようとして、1945年3月9日にフランスの植民地政権を解体し、カンボジアに[[大東亜共栄圏]]での独立を宣言するよう促した([[明号作戦]])。4日後、国王シハヌークは独立カンプチア(カンボジアの元のクメール語の発音)を宣言した。ソン・ゴク・タンは5月に東京から帰国し、外務大臣に任命された。
177行目:
シハヌークは、フランス人が彼をもっと柔軟な君主に簡単に置き換えることができたので、賭け金を賭けていた。しかし、インドシナ全土で軍事状況が悪化し、フランス政府は1953年7月3日、カンボジア、ベトナム、[[ラオス王国|ラオス]]の3つの州に完全な独立を認める用意があると宣言した。シハヌークは、国防、警察、裁判所、および財政問題の完全な管理を含む彼自身の条件を主張した<ref name="loc">{{Country study|url=http://countrystudies.us/cambodia/|country=Cambodia|year=1987|editor-last=Ross|editor-first=Russell R.}}</ref>。
 
フランスは降伏した。警察と司法は8月末にカンボジアの支配下に移され、10月には国は軍の完全な指揮権を握った。シハヌーク国王は国民の目には今や英雄であり、勝利を収めてプノンペンに戻り、1953年11月9日に独立記念日が祝われた。1954年に、財政や予算問題など、主権に影響を与える残余事項の管理は、新しいカンボジア国家に渡された<ref name="loc">{{Country study|url=http://countrystudies.us/cambodia/|country=Cambodia|year=1987|editor-last=Ross|editor-first=Russell R.}}</ref>。{{Notelist}}
 
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite journal|last=Low|first=Sally|date=Spring 2016|title=''Les Tribunaux Résidentiels'': Disputed Jurisdictions in the Protectorate of Cambodia|journal=[[French Colonial History]]|volume=16|pages=73–102|publisher=[[:en:Michigan State University Press|Michigan State University Press]]|DOI=10.14321/frencolohist.16.1.0073|JSTOR=10.14321/frencolohist.16.1.0073}}
 
[[Category:枢軸国]]
[[Category:保護国]]