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少年時代は[[ビートルズ]]マニアで、スクラップ帳を何冊も作るほどの熱中ぶりであったという。
 
[[ザ・ジャム]]時代に[[セックス・ピストルズ]]の2代目ベーシストだった[[シド・ヴィシャス]]をビール瓶で殴りつけたことがあり、風貌とは裏腹に荒くれた面もある。
 
息子の[[ナット・ウェラー]]は、2014年6月にエイベックスから日本デビューしている<ref>[https://natalie.mu/music/news/115092 ポール・ウェラーの息子がJ-POP歌手としてデビュー] - ナタリー</ref>。
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[[セックス・ピストルズ]]のライブにインスパイアされ、バンドは徐々に[[モータウン]]などの[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]を高速で演奏するスタイルに変化。やがてオリジナル中心となり、1977年4月29日にファースト・シングル「[[イン・ザ・シティ]]」をリリースすると、いきなりナショナルチャート入りを果たす。パンクを基調にしたサウンドながら当時のパンクスとは違い全員がおしゃれなスーツを纏って演奏するクールなスタイルと、ウェラーの[[キンクス]]、[[スモール・フェイセス]]、[[ザ・フー]]といった[[モッズ]]アーティストに追随する姿が受け、「モッズ・リバイバル」と呼ばれるブームを巻き起こす。ジャムは順調にヒットを飛ばして成長を遂げ、1980年3月には10枚目のシングル「ゴーイング・アンダーグラウンド」が全英1位に輝き、全英ナンバーワンバンドと言われるほど絶大な人気を集めた。
 
ウェラーの音楽志向はその後さらにR&Bや[[ファンク]]をはじめとする黒人音楽に傾倒した展開を見せ、大胆なホーンセクションの導入などにそれが顕著となって表れる。[[モータウン]]へのリスペクトをダイレクトにあしらったシングル 「悪意という名の街」 が全英1位を獲得するなどバンドは国民的な人気を維持するが、ウェラーはこの頃から自らの音楽性の変化がもはやジャムでは表現し切れなくなってきたことに限界を感じ始める。結局1982年3月リリースの6thアルバム『[[ザ・ギフト (ザ・ジャムのアルバム)|ザ・ギフト]]』を最後にウェラーは電撃的にバンドの解散を決意。6年の活動期間を経て、ジャムはその絶頂のうちに幕を下ろすこととなった<ref>ウェラーはバンド解散の理由について「30歳になってもジャムでパンクのまねごとを続けているなんて考えただけでもオッサン臭くて恥ずかしいだろ」とも語っている。また解散報道の直後にファンの運動により2年も前のシングル「ゴーイング・アンダーグラウンド」が全英チャート1位に返り咲き、ラストシングル「ビート・サレンダー」も当然のように同1位を獲得していることがこの頃のジャムの人気の絶頂ぶりをわせる。</ref>。最期のギグは1982年12月11日にモッズの聖地であるブライトンで行われた。
 
=== ザ・スタイル・カウンシル時代 (1983年 - 1989年) ===
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紆余曲折を経て1992年、自身の名前を冠したソロ1stアルバム『[[ポール・ウェラー (アルバム)|ポール・ウェラー]] (Paul Weller)』を日本の[[ポニーキャニオン]]から発表 (イギリス本国では契約が取れず、日本に遅れること約半年後Go!Discsよりリリース)。彼自身の音楽に向き合う原点回帰とも呼べる素朴で芯の太いサウンドと、[[アシッドジャズ]]の影響を感じさせる柔軟でノリの良い曲との対比が印象的である。当時彼は英国内ではメインストリームとは程遠く完全にマイナー・アーティスト扱いであったが、日本ではスタイル・カウンシル時代からのファンが根強く本国よりもヒットした。
 
続く1993年には前作からさらに力強さを増し、洗練された楽曲を揃えた2ndアルバム『[[ワイルド・ウッド]] (Wild Wood)』を発表。じわじわとチャートを上昇し、ソロとしての復活を印象付ける。この頃から[[オーシャン・カラー・シーン]]<ref>OCSのデビューアルバムが鳴かず飛ばずで苦しんでいた時期、彼らの才能を高く評価していたウェラーがから活動を支援したエピソードが有名。ギターのスティーブ・クラドックとベースのデーモン・ミンケラを自らのツアーサポートに抜擢し、そのギャラでメンバーの生活を成り立たせていたという。特にクラドックを「将来のギター・ヒーローになれる素質がある」と評してツアー後もバックバンドの一員に据えた。クラドックはOCSに専念するため一時期ウェラーのもとを離れていたが、近年OCSを脱退したデーモンとともに再びメンバーに名を連ねている。</ref>や[[オアシス (バンド)|オアシス]]<ref>知り合うきっかけとなったのはオーシャン・カラー・シーンの紹介から。オアシスのメジャーデビュー前から交流を持っており、特に[[ノエル・ギャラガー]]が父親のように慕っている (ノエルは「ジャムは僕のビートルズだった」と語っている)。互いにライブのサポートやアルバム録音への参加、テレビ番組やイベントでの共演など非常に深い親交を見せている。2006年の[[ブリット・アワード]]功労賞授賞式の際にウェラーの名前が呼ばれると一人立ち上がり、ひときわ大きな拍手を送ったノエルの姿が印象的。</ref>、[[ブラー]]といった若い世代のアーティストからリスペクトを受けるようになり、結果的に[[ブリットポップ]]・ムーブメントの火付け役の一人と言える存在となった。1995年にはウェラーの本領発揮とも言うべき英国的な「渋さ」と先人に対する敬愛の念、さらに当時の音楽シーンからの逆影響をフルに詰め込んだ3rdアルバム『[[スタンリー・ロード]] (Stanley Road)』が、当時UKを席巻していた (自らもその形成に一役買っていた) [[ブリットポップ]]の波にも乗って大ヒット。ソロ転向後初の全英1位に輝くなど延々チャートに居座り続け、完全復活を果たす。
 
その後も定期的にアルバムをリリースし、自らの音楽遍歴を生かした多様な楽曲を発表。年齢を感じさせない鋭いロックサウンドを前面に押し出した『[[ヘヴィー・ソウル]] (Heavy Soul、1997年)』 『[[アズ・イズ・ナウ]] (As Is Now、2005年)』や洗練された音が魅力の『[[ヒーリオセントリック]] (Heliocentric、2000年)』 『[[イルミネーション (ポール・ウェラーのアルバム)|イルミネーション]] (Illumination、2002年)』のほか[[ボブ・ディラン]]、[[トラフィック (バンド)|トラフィック]]、[[ニール・ヤング]]、[[ドクター・ジョン]]などの[[ルーツ・ミュージック]]に接近した作品も多数製作しており、その嗜好は自身初のフルカバーアルバム『[[スタジオ150]] (Studio 150、2004年)』に凝縮されている。