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工事施工認可は1917年(大正6年)[[4月6日]]で、22.5 kg/m [[軌条]]や車輌については国鉄の払い下げを受けた<ref name="消えた轍_ローカル私鉄廃線跡探訪_1_北海道_128-131頁" />。こうして、81万2000円の費用をかけて白石駅 - 定山渓駅間 (29.9 km) が[[1918年]](大正7年)[[10月17日]]に開業した<ref name="消えた轍_ローカル私鉄廃線跡探訪_1_北海道_128-131頁" />。開業当初は白石駅 - 定山渓駅間3往復と豊平駅 - 定山渓駅間1往復の運行で<ref name="消えた轍_ローカル私鉄廃線跡探訪_1_北海道_128-131頁" />、白石駅 - 定山渓駅間を1時間30分で結んだ。
 
定山渓鉄道は、定山渓温泉の発展とともに順調に業績を伸ばし、[[1932年]]には札幌からのバス運行も開始した。[[1930年代]]には[[木材]]・[[鉱石]]の[[鉄道貨物輸送|貨物輸送]]も増えたが、[[太平洋戦争]]中には温泉客が減り、鉱石・[[石材]]輸送に重点が置かれた。しかし、資材不足が深刻になったことで[[日本の敗戦|終戦]]時には稼働率が4割に落ち、列車の窓は3分の1が[[ベニヤ板]]張りに変わっていた。
 
定山渓鉄道線の全盛期は、[[戦後復興期|戦後復興]]に伴い定山渓温泉が繁栄を取り戻したことで訪れた。[[1949年]](昭和24年)から[[1963年]](昭和38年)にかけて、夜間発の往復乗車券と[[ビール券]]・[[トウモロコシ|とうきび]]・[[枝豆]]・温泉利用をセットにした「[[月見]]電車」を運行した。会社が整備した豊平川沿いの[[ハイキング]]コースは多くの市民に利用された。また、[[1944年]](昭和19年)に事故で閉山した[[豊羽鉱山]]が[[1950年]](昭和25年)に再開し、定山渓鉄道がその鉱石の輸送を引き受けた。
 
[[1957年]](昭和32年)に東京急行電鉄(現・[[東急]])が定山渓鉄道の株を[[M&A|買収]]し、傘下に収めた。これにより、駅・営業所ごとに予算や営業目標を立てたり、沿線で[[宅地開発]]や高校の誘致に取り組んだりするなど、東急式の経営が導入された。当時東急グループを率いていた[[五島慶太]]は買収に4か月先立つ同年6月、札幌市産業会館で約170人の地元経済人を相手に「北海道における交通政策」と題して講演を行い、[[札幌都市圏]]の[[私鉄]]を統合して定山渓鉄道線と[[夕張鉄道線]]の延伸も視野に入れ、札幌市と[[江別市]]の間に新たに20 kmの鉄道を敷く構想(「[[#札幌急行鉄道]]」参照)を発表したが、1959年(昭和34年)に五島が逝去したことなどで実現しなかった<ref name="道新20200614">【時を訪ねて 1957】幻の東急王国構想(札幌、北見)道内に路線網 鉄道王の夢『[[北海道新聞]]』日曜朝刊別刷り2020年6月14日1-2面</ref>。
 
しかし、この頃から貨物輸送を[[貨物自動車|トラック]]に奪われ始め、1963年(昭和38年)には豊羽鉱山の鉱石輸送がトラックに切り替えられた。また、東急傘下入り後に計画されていた[[複線]]化が実現できず、運転間隔が短縮できないまま道路事情が好転し、旅客も徐々にバスや[[自家用自動車|自家用車マイカー]]に流出していった。これに加え、[[1966年]](昭和41年)に[[北海道警察]]本部から豊平駅近くの[[国道36号]]線上の[[踏切]]が交通上の障害になっているとして、[[高架橋|高架]]化するか[[廃線|廃止]]して[[線路 (鉄道)|線路]]を撤去するなどの適切な処置を取るよう勧告された<ref group="注">同様に、[[札幌市電]]豊平線の[[豊平駅|豊平駅前停留場]]も[[駅前広場]]から国道上へと移転されている。</ref>。
 
こうした劣勢の中で、札幌市が[[札幌市営地下鉄南北線|地下鉄南北線]]を建設することに伴う用地買収を申し出た。定山渓鉄道はこれに応ずる形で鉄道部門の廃止を決定し、1969年(昭和44年)11月1日をもって全線廃止となった。