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: 1958年5月進水、[[長崎造船]]建造
: 52.83→71.18総トン、登録長20.78m、型幅4.40m、型深さ2.10m、焼玉機関、機関出力120→180ps、最大速力8.5ノット→航海速力9ノット、旅客定員50名
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'''徳島阪神フェリー'''(とくしまはんしんフェリー)は、かつて[[関西汽船]]、[[共同汽船]]、[[共正汽船]]の3社が共同運航していた[[フェリー]]航路である。本項では、フェリー化以前の阪神 - 徳島航路についても概説する。
 
== 歴史 ==
徳島と大阪を連絡する航路は近代化以前から和船によって運航されていたが、[[西南戦争]]を機に[[蒸気船]]が多数建造されるようになると、船主間での激しい競争の結果、過当競争状態に陥り、[[住友家]]等の財界有志や有力船主によって、1884年(明治17年)に[[大阪商船]]が設立される。大阪商船の発足と同時に徳島 - 大阪の定期航路も開設されたが、独占的な立場から次第に運賃が高騰し、これに対抗するべく、荷主の藍商人らによって、1887年(明治20年)に[[阿波国共同汽船]]が設立され、しばらくの間競争となるが、1894年(明治27年)に両社間で協定が成立している。
 
徳島港は近代化当初、[[新町川]]右岸の津田港が使われたが、土砂の堆積により次第に[[吉野川]]右岸の古川港<ref>現在の[[吉野川橋 (徳島市)]]のやや上流。河川改修の結果、現在は河中になっている。{{Cite web|url=https://www.skr.mlit.go.jp/tokushima/kouhoushi/matome/rekishitanbou/PDF/r-52.pdf|title= 吉野川歴史探訪 ~明治から昭和はじめの構造物~ ~その1 別宮川周辺の物流の移り変わり ~ |publisher=四国地方整備局 |accessdate=2024-04-16}}</ref>が使用されるようになり、大阪商船・阿波国共同汽船とも当初古川港に発着したものの、市街地から遠く、安定しない吉野川の流路と土砂の堆積のため、1897年頃に[[徳島市]]が新町川と福島川の合流点付近の浚渫を行って中洲一帯を整備し、大阪商船は福島橋付近、阿波国共同汽船は富田橋下流へそれぞれ移動し、富田港、中洲港等と呼ばれたが、1922年(大正11年)に[[内務省]]による港湾指定を受け、正式に徳島港となった。
 
しかし大阪商船と提携した阿波国共同汽船は、1913年(大正3年)に連絡鉄道として[[小松島線]]を開業、小松島 - 大阪航路を開設し、1922年には徳島航路を休止する。徳島市は航路の浚渫に努めていたが、