「夜のヒットスタジオ」の版間の差分

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1985年9月25日、井上順が「自らの可能性をより広める」ためとして司会を降板<ref group="注">ただしこれは表向きの理由であり、実際は当時、井上が所属事務所に無断で製菓メーカーのCMの仕事を入れた事が問題視され、ペナルティーとして一定期間の芸能活動縮小に追い込まれた事による降板であるとされる。また、井上降板直後に刊行された元番組バンドマスター・[[ダン池田]]による暴露本『芸能界今日モ反省の色ナシ』の中で、かなりの頁数を割いてダンが井上(特に当番組に取り組む姿勢)に対する批判を展開している事を事前にキャッチした番組製作サイドが、これによって番組全体のイメージに傷が付く事を怖れて、刊行前のタイミングで井上を番組から外し、番組カラーを転換する必要に迫られたとの説もある。このような事情もあってか、井上司会最終回の1985年9月25日放送のエンディング時に芳村真理は「順さん、また(番組に)帰って来て」と言いながら花束を渡し、その後の「お世話になりました」の大合唱を号泣しながら見守っていた事から井上の降板が実際上は自発的なものではなく、当人の意思に反した降板であることを匂わせる発言をしている。</ref>。代わって[[テレビ朝日]]から独立して間もない'''[[古舘伊知郎]]'''が起用される<ref>{{Cite journal|和書|date=1986-01-01|title=FTV|journal=[[婦人生活]]|volume=40|issue=1|pages=97|publisher=[[婦人生活社]]|id={{NDLJP|2324857/97}}}}</ref>{{refnest|group=注|当初、同年春に『[[ザ・ベストテン]]』を降板した[[久米宏]]を井上の後任に迎える案があったが<ref>『週間TVガイド』1985年4月27日号。{{要ページ番号|date=2024年4月}}</ref>、既に久米は[[テレビ朝日]]系で同年秋スタート予定の報道番組(『[[ニュースステーション]]』)に専念することが内定していたために頓挫。久米の代わりとして、フリー転身直後の活躍ぶりを考慮して古舘の司会起用が決定したとされる。}}。古舘は局アナ時代の[[1982年]]に、スケジュール多忙のためにコーナー別撮りになった[[西田敏行]]の後任として、[[タモリ]]と共に『[[夢のビッグスタジオ]]』の司会になって<ref group="注">しかし西田が生で出演しなくなった事で人気は低下し、6回で降板した[[皇達也]]プロデューサーの後を追ってタモリ・西田と共に降板し、番組は8回で[[打ち切り]]になってしまう。なお残りの2回は、局アナの[[佐々木正洋 (1954年生)|佐々木正洋]]と[[南美希子]]が代行した。</ref>以来の音楽番組担当となった。古舘の司会第1回目の放送(1985年10月2日)で芳村真理は「時間が経てば終わるのよ」とフォローの言葉をかけ、古舘の緊張をほぐしたという<ref group="注">古舘が自身の著書で回顧している。</ref>。当時「ストロボする言葉マシーン」を自称していた古舘は[[プロレス]]・[[フォーミュラ1|F1]]の実況中継の時と同様に<!-- 「顔面ダブルバーガー」([[ばんばひろふみ]]に対して)、「歌う[[みどりの窓口]]」([[THE ALFEE]]に対して)、「歌う日米半導体[[貿易摩擦]]」([[TM NETWORK]]に対して)、「まるで人類の進化を見ているようです!」([[飛鳥涼]]・[[ジャッキー・チェン]]らを一列に並べた様を形容)など -->巧みな話術を展開し、それまで井上と芳村が交互に担当していた「4スタライブ」の進行も一手に引き受けることとなった。後に芳村は、古舘と最初に組んだ『ヒットスタジオ』の放送の時に若手司会者らしからぬ堂々の進行ぶりに圧倒され「自分の中で(司会勇退に向けて)心の整理を始めていた」「この人なら、後を任せられると思った」と著書の中で回顧している。
 
この時期には新進気鋭のアーティストの存在に注目し、[[久保田利伸]]、[[RED WARRIORS|レッド・ウォーリアーズ]]、[[今井美樹]]、[[BOØWY]]、[[THE BLUE HEARTS]]、[[米米CLUB]]、[[尾崎豊]](1988年6月22日放送)らを他に先駆けて出演させた。また、ミュージカルの1シーンの再現や、[[渡辺謙]]・[[松坂慶子]]ら人気俳優の「マンスリーゲスト」への起用のほか、アルバム収録曲が頻繁に披露されるなど、クオリティの高い番組制作が試みられた。松坂慶子が銀粉まみれの男性ダンサーと入り乱れながらの「桃色吐息」(1986年5月28日放送)、[[西城秀樹]]と[[バリー・マニロウ]]のジョイントによる「[[腕の中へ -In Search of Love-]]」(1985年12月4日放送)、THE ALFEEをバックコーラスに従えての[[吉田拓郎]]による「アジアの片隅で」(1987年12月30日放送)、[[アン・ルイス]]と[[吉川晃司]]による「六本木心中」での過激なパフォーマンス(1985年10月2日放送)、[[宇崎竜童]]・[[内田裕也]]・[[うじきつよし]]らロック仲間総出での「ロックンロール・ウィドウ」(1987年3月4日放送) などのシーンが生まれた。
 
古舘起用後も、制作の中心的役割を担ってきた[[塚田茂]]と[[疋田拓]]らが引き続き担当したものの、[[1987年]]のフジテレビ社内の人事異動で7月に疋田が降板したことを契機に<ref name="sunday-mainichi19880131">「できごとワイド1 鈴木健二、野村泰治、森光子、芳村真理 看板司会者が去るそれぞれの「裏事情」」『[[サンデー毎日]]』([[毎日新聞出版]])、1988年1月31日、159-161頁。</ref>、監修に回った塚田を除き制作の一線を外れ、代わって[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]出身で古舘とは学生時代より面識があったという[[木崎徹]]、プロデューサー・ディレクターには疋田の部下であった[[渡邉光男|渡邊光男]]など若手作家・スタッフ陣が起用された。当時の「サンデー毎日」の記事によれば、当時フジサンケイグループ議長だった[[鹿内春雄]]が推し進めた若返り政策の一環で、それまで率いてきた制作首脳陣の世代交代が一気に進められたとされる<ref name="sunday-mainichi19880131" />。
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| [[1985年]](昭和60年)<br />(10月 - )
| rowspan="3" align="center" | 古舘伊知郎<br />1985年10月2日 - 1990年10月3日<br />第878回 - 1131回
| 10月2日、元・[[テレビ朝日]]アナウンサーの古舘伊知郎が4代目の男性司会者として登場。応援ゲストに[[アントニオ猪木]]、また、角界から横綱・[[千代の富士貢|千代の富士]]が出演。<br />10月2日、アン・ルイス・吉川晃司が「六本木心中」で過激なライブパフォーマンスを展開、物議を醸す<br />10月2日、[[岸千恵子]]が大勢の地元の後援会の面々が駆けつける中、「千恵っ子よされ」をスタジオ狭しに駆け回りながらの熱唱。随奏の三味線伴奏者や当日のゲスト歌手までもが即興で踊り出し、スタジオ内が異様な熱気に包まれる<br />10月9日、ジョイント - 矢野顕子×坂本龍一(夫婦競演)<br />10月9日、[[HOUND DOG]]初出演。多数のファンがスタジオに駆けつける中で「[[ff (フォルティシモ)]]」を熱唱、曲の途中で当日の出演者の一人、サザンオールスターズの[[桑田佳祐]]が飛び入りでジョイント。<br />10月16日、[[阪神タイガース]]優勝の瞬間を生中継。放送時間のおよそ半分を生中継に費やしたため、当日のみしか空いていないスケジュールの歌手のみを優先させて歌わせ、エンディングでオープニングメドレーを行った。<br />11月13日、[[ホイットニー・ヒューストン]]衛星生中継で初出演「[[すべてをあなたに (曲)|Saving All My Love for You(すべてをあなたに)]]」<br />11月20日、[[矢沢永吉]]、ロサンゼルスから衛星生中継で初出演「[[YOKOHAMA二十才まえ]]」「SHE BELONGS TO HIMー彼女は彼のものー」<br />12月4日、ジョイント - 西城秀樹(マンスリー)×[[バリー・マニロウ]]「[[腕の中へ -In Search of Love-]]」<br />12月11日、[[SHOW-YA]]初登場<br />12月18日、逸見政孝が古舘の代役司会、ジョイント - 沢口靖子×布施明「白の円舞曲」<br />12月25日、当日放送回の前半トリで「夢よ急げ」を披露する予定となっていたTHE ALFEEの演奏中にギターが故障して演奏の続行が不可能になるアクシデントが発生。急遽、後半(22時台)の曲順・構成を入れ替え、再演奏する措置が採られる。
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| [[1986年]](昭和61年)