削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
リンク調整
7行目:
慶応4年[[6月14日 (旧暦)|6月14日]](1868年[[8月2日]])[[明治維新|明治政府]]・[[外国官]]より大坂外国官事務所(大坂河口運上所)出仕を命ぜられたが、同年[[7月28日 (旧暦)|7月28日]]([[9月14日]])[[脚気]]のため辞職した<ref name="fu105"/><ref name="ri"/>。同年[[9月5日 (旧暦)|9月5日]]([[10月20日]])[[会計官]]より[[鉱山司]]出仕を命ぜられ、同月、[[生野銀山]]鉱山局へ派遣された<ref name="fu105"/><ref name="ri"/>。
 
明治2年[[6月11日 (旧暦)|6月11日]]([[1869年]]7月19日)[[フランス]]留学のため鉱山司出仕を辞し<ref name="ri"/>、[[横浜市|横浜]]から[[ロンドン]]に渡り英学を学ぶ<ref name="fu105"/>。明治3年([[1870年]])フランスへ渡り[[パリ]]の小塾に入学した<ref name="fu105"/>。[[普仏戦争]]が勃発し、学費も乏しかったため帰国の際に土産にしようとパリ籠城を詳しく記録した<ref name="fu105"/>。[[1871年]]1月28日パリ開城後、[[大山巌]]ら軍事視察員一行が渡の宿を訪問しパリ籠城の様子を筆記しようとしたが、記録ノート八冊を一行に預け、大山等が帰国後に[[兵部省 (明治時代)|兵部省]]に提出し、それが『孛仏戦争日誌』(『法普戰争誌畧』)として刊行された<ref name="fu105"/>。明治4年[[3月12日 (旧暦)|3月12日]](1871年5月1日)兵部省は渡を[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍兵学寮]]出仕に発令し、国費留学生として歩兵学科の修業を命じられ[[サン・シール陸軍士官学校]]予備科を修めた<ref name="fu105"/>。明治5年[[3月 (旧暦)|3月]]([[1872年]])[[岩倉使節団]]一行がパリに入った際には[[山田顕義]]理事官(陸軍[[少将]])に随行し兵制取調を命ぜられた<ref name="fu105"/><ref name="ri"/>。同年[[9月 (旧暦)|9月]]([[10月]])サン・シール陸軍士官学校に入学し<ref name="fu105"/>[[1874年]]まで学んだ。
 
1874年7月8日に帰国し、同年8月[[陸軍省]]七等出仕に発令され[[参謀本部 (日本)|参謀局]]第一課分課に配属された<ref name="ri"/>。同年12月8日、陸軍[[少佐]]任官<ref name="ri"/>。以後、兼将校以下佩剣服制取調、兼兵学寮幼年学校次長、参謀局諜報提理を歴任<ref name="ri"/>。[[1875年]]11月、法則掛兼勤を経て、[[1876年]]2月、専任の三等法制官に転じた<ref name="fu105"/><ref name="ri"/>。[[1877年]]1月、[[太政官]]少書記官に就任し、翌日、[[内閣法制局|法制局]]専務となる<ref name="ri"/>。[[西南戦争]]では、征討別動隊第三旅団会計部長、征討参軍随行征討本営詰などを兼務し従軍した<ref name="ri"/>。その後、陸軍省御用掛、太政官権大書記、同大書記官、[[参事院 (日本)|参事院]]議官補などを経て、1877年10月、参事院議官に就任<ref name="ri"/>。[[1885年]]12月22日、参事院が廃止され元老院議官に転じた。[[1890年]]9月29日、貴族院勅選議員に任じられ<ref>『官報』第2182号、明治23年10月6日。</ref>、同年10月20日、[[元老院 (日本)|元老院]]が廃止され議官が非職となり錦鶏間祗候を仰せ付けられた<ref name="ri"/>。その後、貴族院議員を死去するまで務めた。大正13年1月28日[[薨去]]。[[享年]]86。墓所は[[青山霊園]]。[[戒名]]は元光[[院殿]]度水規山[[大居士]]<ref>『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』179頁。</ref>。