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1952年、東京中学校卒業。先輩に[[安藤鶴夫]]、[[牧伸二]]がいる。同年4月、[[東京高等学校|東都高等学校]]を中退後、16歳で[[柳家小さん (5代目)|5代目柳家小さん]]に入門。本名の「克由」の一字を取って、'''柳家小よし'''と名乗る。初高座は[[新宿末廣亭]]における『[[浮世根問]]』。1954年3月、[[二つ目]]に昇進して'''[[柳家小ゑん]]'''と改名。[[寄席]]のほかに[[日劇ミュージックホール]]や[[新宿松竹文化演芸場]]にも定期的に出演し、コントや漫談も披露する。スタンダップコメディを演じる際には赤シャツにジーパン姿がトレードマークだった。
 
1962年3月に、入門が5年遅い[[古今亭朝太]](のちの[[古今亭志ん朝|3代目古今亭志ん朝]])が「36人抜き」で小ゑんよりも先に[[真打]]に昇進、さらに10月には入門が約3年遅い[[三遊亭圓楽 (5代目)|5代目三遊亭圓楽]]にも真打昇進で先を越され、生涯最大の屈辱を味わう。1963年4月、'''立川談志'''を[[襲名]]し、真打に昇進。同時に小さん門下から[[柳家つばめ (5代目)|5代目柳家つばめ]]も真打に昇進した。
 
実際には7代目とされるにもかかわらず、[[立川談志 (名跡)|立川談志]]の「5代目」を自称した経緯については、後年の著書で「明治時代の寄席で人気を博していた[[立川談志 (4代目)|4代目(談志)]]が『初代(談志)』を称しており、小ゑん(松岡)の先代にあたる[[立川談志 (6代目)|6代目(談志)]]がそれに倣って『4代目(談志)』と称していたようなので、小ゑんは『5代目』というのは語呂が良く、さらに師匠[[柳家小さん (5代目)|5代目柳家小さん]]と代数が合うので丁度いいということで、『5代目談志』を名乗ることになった」と明かしている<ref>『現代落語論』(立川談志著、三一新書刊、1965年)P163。</ref>。
 
=== 『笑点』立ち上げ ===
1966年5月15日、『[[笑点]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])が放送開始。1969年11月2日まで初代司会者を務める。のち『笑点』放送100回記念放送では[[桂歌丸]]と異色漫才を披露した。後年、「『笑点』ってのはよう、アタシが作った傑作なんだよ」と語った通り、『笑点』は談志が自ら企画して実現したものである。
 
初代メンバーの1人である5代目三遊亭圓楽が『[[いつみても波瀾万丈]]』で語ったところによると、談志が5代目圓楽に「寄席でやっている[[大喜利]]をテレビでやろうじゃないか」と持ちかけたのが番組開始の端緒だという<ref name="danshi1">ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』105頁</ref>。落語ではなくあえて大喜利をメインとしたのは「落語は(噺の)前後にしかコマーシャルを入れられないし、座ってるだけで(テレビに)不向きだから。大喜利なら途中でコマーシャルが入れられるから」だったという<ref name="danshi2">『圓楽 芸談 しゃれ噺』(五代目三遊亭圓楽著、百夜書房刊、2006年)193頁。なお、談志は「落語がテレビ向きでない」という主張を『現代落語論』255-260頁でも行っており、その最後で「誰かテレビにおける落語の演出を考えてください。お願いします」と訴えている。</ref>。談志はまた「大喜利を前面に出すのは感心しないが、やらないのも駄目だ」と考えていた<ref name="danshi2" />。談志は1960年代半ばにテレビ・ラジオの電波メディアの普及で寄席に閑古鳥が鳴いている状況に危機感を抱き、「これからは、落語家はテレビにもどんどん出て行かなきゃ駄目だ<ref name="danshi2" />」との考えから、テレビ局へ企画の売り込みを図った。その結果生まれた番組が前身番組の『[[金曜夜席]]』で、隔週金曜深夜に放送された。当初は談志が演芸コーナーの司会で、5代目圓楽が大喜利コーナーの司会というローテーションだったが、のちにどちらとも談志に統一された{{efn|大喜利では圓楽は回答者に回る。のちに降板するが、しばらくして同番組の司会者として復帰する。}}。前身番組の時点で『笑点』の基礎が固まり、そのまま日曜夕方の番組としてスタートしたのである。『笑点』の司会では、持ち前の[[ブラックユーモア]]を生かした、機知に富んだ掛け合いを演じた<ref name="danshi1" />。しかし視聴率が伸び悩み、初代レギュラー陣との関係も悪化したため、暫時的な新レギュラー期間を挟んで、最終的には談志自身が降板を余儀なくされた<ref name="danshi1" /><ref>[[桂歌丸]]『座布団一枚!桂歌丸のわが落語人生』[[小学館]]、2010年9月8日。</ref>。なお、歴代『笑点』の司会者で、就任時点で[[落語協会]]に所属していた人物は現在に至るまで談志のみである。
 
降板後も特別番組には何度か出演したが、2000年代以降は完全に距離を置いた。番組で不定期に放送された「真打昇進披露口上」では[[立川志の輔]]の真打昇進時(1990年6月3日放送)が唯一の出演例となった{{efn|同番組は2024年4月7日放送分で[[立川晴の輔]]がレギュラー入りするまでは立川流に所属する落語家がレギュラー出演したことは無く<ref>{{Cite web |title=新メンバーは立川晴の輔さん 「笑点」木久扇さん後任 |url=https://nordot.app/1149635139970269677 |website=共同通信 |date=2024-04-07 |access-date=2024-04-08}}</ref>、立川流の出演は演芸や若手大喜利など少数に限られていた(ただし、志の輔の弟子の立川晴の輔や談志の直弟子である[[立川志らく]]が[[三遊亭円楽 (6代目)|6代目三遊亭円楽]]の休演時に代理メンバーとして大喜利に出演したことがある)<ref>{{Cite web |title=「笑点」半世紀ぶりに立川流出演 円楽の代演で晴の輔「暗黒集団から参りました」 |url=https://www.daily.co.jp/gossip/2019/09/15/0012703624.shtml |website=デイリースポーツ |date=2019-09-15 |access-date=2024-04-08}}</ref><ref>{{Cite web |title=立川志らく、「笑点」に初登場! 初代司会者・立川談志さんの直弟子が大喜利に出るのは初めて |url=https://hochi.news/articles/20220505-OHT1T51240.html?page=1 |website=スポーツ報知 |date=2022-05-05 |access-date=2024-04-08}}</ref>。また、昇進披露口上にも立川流の新真打出演経験もあるが、他流派では通常出演する各協会・所属団体のトップが進行役として出演したことはない。}}。また、談志は初代メンバーの一人である歌丸に対し、「『笑点』を辞めてくれ」と直言したこともあるという<ref>『歌丸 極上人生』(桂歌丸著、祥伝社黄金文庫刊、2015年)270頁。歌丸は「『(『笑点』を)早くやめた方がいいよ』という方もいらっしゃったが、一番初めに言ったのは談志さんだった」とも述べている。</ref>。
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1969年、[[第32回衆議院議員総選挙]]に[[東京都第8区 (中選挙区)|旧東京8区]]から[[無所属]]で出馬。「東京は東京を愛するものにまかせろ」「相談にのるぜ、力になるぜ」「そしてあなたもつづけ」のキャッチフレーズを掲げて挑んだ<ref>新聞広告『朝日新聞』昭和44年(1969年)12月20日朝刊、12版、15面</ref> ものの落選。定数3のところ、19,548票で立候補者9人中6位であった。
 
同年、[[ニッポン放送]]にて、[[月の家圓鏡]](のちの[[橘家圓蔵 (8代目)|8代目橘家圓蔵]])と[[木魚]]を叩きながらナンセンスなやりとりをする[[ラジオ番組]]『談志・円鏡 歌謡合戦』がスタート。人気番組となり、[[1973年]]まで放送された<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sanspo.com/geino/news/111211/gnj1112110505015-n1.htm |title=談志さん、未公開音源蔵出しで“復活” |date=2011-12-11 |
publisher=産経ニュース |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120117045529/http://www.sanspo.com:80/geino/news/111211/gnj1112110505015-n1.htm |archivedate=2012-01-17 |accessdate=2021-04-07}}</ref>。この番組は談志のお気に入りであり、のちに独演会などで番組の再現を行っている。『談志の遺言』でも圓蔵をゲストに迎えて特別企画としてリバイバル企画を行った他、2007年10月開始の『[[立川談志・太田光 今夜はふたりで]]』(TBSラジオ)では[[太田光]]([[爆笑問題]])を相方に、木魚を叩きながら即興のやりとりを行う、『歌謡合戦』を意識した番組作りがなされた。
 
1971年、[[第9回参議院議員通常選挙]]に[[全国区制|全国区]]から無所属で出馬、初当選<ref>{{NHK放送史|D0009030567_00000|参議院選挙 立川談志氏ら初当選}}</ref>。当時の全国区で50人中50位の最下位当選だったが<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=-6CcDRkwjpA&t=193s 「タレント候補の泣き笑い -参院選-」No.911_2] 中日映画社</ref>、その際のインタビューで「[[寄席]]でも選挙でも、真打は最後に上がるもんだ」という言葉を残す。直後に[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]に入党した。本人によれば、談志の自民党入りを要請するために訪れた[[佐藤栄作]]が座布団から降りて小さんに頭を下げたため、小さんが談志に自民党入りを促したという。国会質疑では[[NHK受信料|NHK受信料問題]]などを取り上げた。
 
1975年12月26日、[[三木内閣]]の[[沖縄振興局|沖縄開発]][[政務次官]]に就任するが、就任時の[[プレスリリース|会見]]で議員の選挙資金について「子供の面倒を親分が見るのは当然」と発言したことが問題化。さらに、政務次官初仕事である[[沖縄国際海洋博覧会|沖縄海洋博]]視察では二日酔いのまま記者会見に臨み、地元沖縄のメディアの記者から「あなたは、公務と酒とどちらが大切なんですか」と咎められる。これに対して「酒に決まってるだろ」と返答したことがさらに問題となる。さらに詰問する記者に対して退席を命じ、会見を打ち切ろうとしたため批判を浴びた。弁明を行うはずの参議院[[決算委員会]]を寄席を理由に欠席するに至って、自民党内部からも反発が起こり辞任。在任期間は僅か36日であった。談志自身は、議員になったのは兼職をしてもいいと言われたからであり、自分は大衆との接点を持ち続けるのが信条だとして、自民党も離党した。この時、親交がある[[石原慎太郎]]{{efn|最晩年に気道切開手術を受けた後も談志は[[東京都知事]]となった石原のことを気にかけており、亡くなる2か月前に石原本人から電話があった時に談志は声が出せない状態ながら意思を伝えるために電話口の前でうなずいたり首を振ったり、しゃべろうとして咳き込んだりしていたという{{sfn|松岡|2011|p=288}}。}}から「謝罪したらどうだ」と説得されたが拒絶している。
 
参議院議員2期目を目指し、全国区から東京地方区への鞍替え出馬を予定していたが、直前で出馬を取りやめ、議員活動は参議院議員1期6年だけで終わった。本人曰く「政治家としての経歴がマイナスになるのは俺ぐらいだろう」と振り返っていた。
 
政治思想は[[保守]]寄りであった。在任中は[[日本共産党]]議員への野次に力を入れていたことにより、共産党支持者の8代目林家正蔵(のちの[[林家彦六]])<ref group="注釈">ただし、彦六は共産党のイデオロギーに共感していたわけではなく、本人は[[判官贔屓]]としている。</ref>と、野次があるたびに喧嘩をしていた模様である。ただし、彦六は談志の選挙を手伝っていた。談志も、国会の決算委員会で[[日本国有鉄道|国鉄]]問題の際に「通勤定期を通勤のみに使い、外出など私用な目的には定期を使わずに運賃を払っている人物」の例として彦六を取り上げており、議事録にも残っている<ref>昭和51年10月28日、参議院運輸委員会会議録7号29頁</ref>。政界を退いた後も自民党を中心とする保守系政治家との親交を深め、保守系議員の選挙応援などにもしばしば動いた。
 
その反面、元社会党衆議院・参議院議員[[上田哲]]の選挙応援に動いたこともある。談志によると「議会には反対派も必要だ」とのことだが、政治レベル以外での個人的な交友関係による支援と思われる<ref group="注釈">上田は落語立川流Bコースに名を連ね、立川流の高座に上がったこともある。</ref>。後年には[[医師]]・作家の[[なだいなだ]]の提唱した[[老人党]]に賛同し、上田・[[西丸震哉]]とともに「老人党東京」(3人の共同代表)を旗揚げした。
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8月2日、死去の誤報をどこからか聞きつけた日本テレビの取材陣が自宅を訪れ、長男が怒鳴りつける事態が発生<ref name=":3" />。
 
8月19日、行きつけの銀座のバーに直弟子と一部関係者が集合、家族に連れられて談志が来店。体調は芳しくなかったが、どうしても行きたいということで解熱剤を処方されたのちにやって来た。すでに話すことはできなかったが、紙に書いた言葉で一同を笑わせた。これが多くの直弟子にとっては生前最後の対面となる。談志が退出後、弟子一同で今後のマスコミ対策を協議した<ref name=":3">{{Cite book|和書|title=談志歳時記|date=2012-11-21|publisher=新潮社|pages=283-285|author=吉川潮|first=吉川潮|isbn=9784104118076}}</ref>。
 
自宅療養中に衰弱が進んだため、9月12日に再入院{{sfn|松岡|2011|p=298}}。10月27日、昏睡状態に陥る。この日を最後に意識が回復することはなく、11月21日午後2時24分、家族に看取られて[[喉頭癌]]のため死去<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20121201012253/http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20111124-OHT1T00010.htm?from=yol|title=立川談志さん、喉頭がんで死去…75歳、声失い最後は筆談|newspaper=[[スポーツ報知]]|date=2011-11-24|accessdate=2011-11-24}}{{リンク切れ|date=2018-08-03}}</ref>。75歳だった。
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=== 自殺の危惧 ===
同業の先輩である[[林家彦六|8代目林家正蔵(のちの林家彦六)]]からは「談志は自殺するのでは」と危惧された。正蔵がそう発言したのは、談志が国会議員になったばかりの絶好調の頃であったのだが、正蔵に言わせると「談志はやることなすことが全て当たり、成功したので、現実の世の中が馬鹿馬鹿しく思えるのではないか」とのことだった。正蔵は談志本人に直接そのことを指摘しなかったが、他の多くの人物には語っていた。その1人である[[川戸貞吉]]がこの事実を本に書き、公の知るところになった。
 
晩年の談志は、テレビで「死ぬつもりでいたからね。(でも)自殺ができないってことになって……。本当の話だもん」と、自殺願望が抑え切れなくなっていることを告白し<ref>{{YouTube|AIYQGCoDfxQ|TOKYO MX 談志・陳平の言いたい放だい 2007年8月25日放送}}</ref>、「談志は自殺する」という正蔵の予言について「(今から見れば)当たっている」と評した<ref>[[川戸貞吉]]との対談にて([[紀伊国屋書店]]第85回新宿セミナー、2007年9月16日)</ref>。公式ホームページ『地球も最後ナムアミダブツ』の日記欄「今日の家元」にも自殺をしたくてもできない葛藤が書き込まれたが、この危惧は現実とはならなかった。
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: [[爆笑問題]]がデビューしたての頃、[[太田光]]の持つ才能をすぐに見抜いて高評価した談志は、太田に対し「天下、獲っちゃえよ」と応援すると同時に「(相方の)[[田中裕二 (お笑い芸人)|田中]]だけは切るなよ。こう出来た奴も、なかなかいないもんだ」と述べ、田中が太田にとって欠かせない存在であることを説いた。しばしば「太田は俺がよそで作った子供だ」とも発言した(太田の実父はもともと談志を嫌っており、これを聞いて少し不安になったという逸話を太田が語っている)。
; 博多華丸・大吉
: 2005年、上京して間もない[[博多華丸・大吉]]が『[[談志・陳平の言いたい放だい]]』([[東京メトロポリタンテレビジョン|東京MXテレビ]])のコーナー「芸人解放区」に出演し、ガチガチに緊張しながらネタを披露した際には、「まあ、内容として、こういう優しいネタを選んでて。俺はとっても文化的には好きだなあ。あとで、いいアドバイスしてやるよ」と声をかけた。収録後の打ち上げではコンビを別室に呼び、「いいか。よく聞け。これは過去、[[爆笑問題]]にしか言っていない。──絶対に、解散するなよ」とアドバイス直言したという<ref>{{Cite news|date=2015-03-31|url=https://web.archive.org/web/20160304131454/https://cakes.mu/posts/8933|title=24年ぶりの漫才師と落語家——博多大吉×立川談慶 自然にみんな上を向いちゃうような人間関係がある|newspaper=ケイクス|publisher=note|accessdate=2020-05-12}}</ref><ref>{{Cite news|date=2016-10-27|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/10/27/kiji/K20161027013613480.html|title=華丸・大吉 談志さんに言われた「過去、爆笑問題にしか言っていない」言葉とは…|newspaper=Sponichi Annex|publisher=スポーツニッポン新聞社|accessdate=2017-07-27}}</ref>。
; 古坂大魔王
: 『[[爆笑オンエアバトル]]』出演時、談志は[[古坂大魔王]]のネタを「イリュージョン」と表現し、音楽ネタをやり続けるようアドバイスした。その後、自身の独演会の前座に古坂を呼んだこともあった<ref>{{Cite web|和書|url=https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/1613498/ |title=ピコ太郎支えた談志さんの言葉「何を言われてもやり続けろ」 |accessdate=2022-2-1 |publisher=光文社 |date=2017-2-4 |website=女性自身}}</ref>。
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* [[吉川潮]]
* [[和田尚久 (ライター)|和田尚久]]
* [[桂米市]]
* [[神田伯山 (6代目)|神田伯山]]
* [[桑田佳祐]] - 面識はないものの『[[第61回NHK紅白歌合戦]]』で談志が発した「ふとした病」というフレーズを借用しつつ自身が食道がんで休養したことを語ったり<ref>[https://www.barks.jp/news/?id=1000066779 桑田佳祐、『NHK 紅白歌合戦』で復活。ニューアルバム『MUSICMAN』情報も解禁] バークス</ref>、雑誌で『[[落語のピン]]』のDVDや<ref>「BRUTUS」2011年3月1日号 p.55</ref>『笑点』を見ていることを公言しており<ref>「BRUTUS」2011年3月1日号 p.43</ref>、談志からの影響や落語などを好んでいることを述べている。
* [[重藤暁]]
805行目:
* 『新釈立川談志 没後10年永久保存版』(河出書房新社、2021年11月) ※2018年版文藝別冊の改訂版
 
=== 関係者連書・評論 ===
*{{Cite book |和書 |author=三遊亭圓楽(5代目) |date=2006-07 |title=圓楽 芸談 しゃれ噺 |publisher=白夜書房 |ref={{SfnRef|三遊亭|2006}} }}
*[[吉川潮]]『戦後落語史』(2009年12月、新潮新書)