「日進 (装甲巡洋艦)」の版間の差分

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ガルシアの孫から聞いた話として[[高山正之]]は、司令官負傷の際に艦長も負傷し、ガルシアが代わりに艦の指揮を執ったという話を紹介した。ただしこれには艦長の負傷などに裏づけ(「海戦記」にも艦長は負傷していないと書かれており、日本側戦史の負傷者リストにも名前がない)がないと[[水交会]]が反論している。水交会では戦闘に参加したとしても砲の射手を務めたに過ぎないとしている。
==爆発事故==
1912年11月18日、演習および観艦式からの帰路の途中で寄港していた[[清水港]]で「日進」の火薬庫爆発が発生した<ref name="yam72">軍艦爆沈事故と海軍当局の対応、72ページ</ref>。午後6時50分ごろ後部8インチ砲塔付近で爆発が発生したが、火薬庫注水などの措置が迅速に行われ、損傷は軽微なものにとどまった<ref name="yam72"/>。人的な被害は死者2名負傷者17名であった<ref name="yam72"/>。航行も可能であった「日進」は横須賀に回航され、「[[筑波 (巡洋戦艦)|筑波]]」艦長の[[鈴木貫太郎]]大佐を委員長とする[[横須賀鎮守府]]の査問会により事故調査が行われた<ref>軍艦爆沈事故と海軍当局の対応、72、75ページ</ref>。実質10日間の査問期間で爆発の原因は火薬の自然発火であるとの結論が出されたが<ref>軍艦爆沈事故と海軍当局の対応、77ページ</ref>、後日真因が明らかとなった。1913年8月に殺人事件を起こした予備役二等兵曹が「日進」の火薬庫を爆発させたと告白した<ref name="yam73">軍艦爆沈事故と海軍当局の対応、73ページ</ref>。不満を抱いていたこの人物は艦長に脅迫状を送ったものの反応がなかったため艦の爆破を企んだのであった<ref name="yam73"/>。その後、予備役二等兵曹は、翌年の1914年[[7月7日]]に[[舞鶴鎮守府]][[軍法会議]]によって死刑判決が下され、[[大正4年|1915年]]に死刑執行されている<ref name="大正3年版海軍省年報">{{Cite web|和書|author=海軍省|title=大正3年版海軍省年報 第15編 司法|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/974311/292|date=1914|accessdate=2020-10-23}}</ref><ref name="大正4年版海軍省年報">{{Cite web|和書|author=海軍省|title=大正4年版海軍省年報 第15編 司法 軍法会議 第二十七 軍法会議別受刑者体刑の執行 大正四年(コマ番号322)|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1367005/1/322|date=1917-04-25|accessdate=2023-09-11}}</ref>。また、[[大正時代]]で殺人罪との併合があれど、[[海軍刑法]](罪状:艦船破壊未遂罪)を犯した罪により唯一死刑執行された事例である。
 
== 略歴 ==