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=== 第二次 ===
[[File:Tanaka Shozo M02.JPG|thumb|[[古河市]]内の渡良瀬川沿いに建立された『田中正造翁遺徳之賛碑』。<br />レリーフ中央に直訴状を捧げる田中正造が描かれている。]]
明治34年(1901年)12月10日、日比谷において田中正造が[[明治天皇]]に足尾鉱毒事件について[[直訴]]を行ったが、警備の警官に取り押さえられて失敗。しかし、東京市中は大騒ぎになり、号外も配られ、訴状の内容は広く知れ渡った。田中の直訴後、学生が相次いで団体で足尾見学に向かうなど、世論の盛り上がりにあわてた政府は、[[1902年]]3月、勅令により鉱毒調査委員会を設置して再度調査を開始した{{efn|鉱毒調査委員会官制、明治35年勅令第35号。}}{{sfn|田川大吉郎|1909}}。同委員会は[[1903年]]に、[[1897年]]の予防令後は鉱毒は減少したと結論づけ、洪水を防ぐために渡良瀬川下流に鉱毒沈殿用の大規模な「[[遊水池]]」を作るべきとする報告書を提出した。しかし、第二次鉱毒調査委員会は、前述のとおり、予防令による工事で鉱毒は減少したとは結論づけたが、鉱毒が消滅したという調査結果はない。衆議院議員[[田川大吉郎]]は同年、自著に「足尾銅山に関する調査報告書」を添付して訴えた{{sfn|田川大吉郎|1909}}。