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|注釈 =「{{補助漢字フォント|曌}}」は「照」の[[則天文字]]。
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'''武 則天'''(ぶ そくてん)は、[[中国]]史上唯一の[[女帝]]。[[唐]]の[[高宗 (唐)|高宗]]の[[皇后]]となり、後に唐に代わり[[武周]]朝を建てた。[[]]は'''照'''(しょう、'''{{補助漢字フォント|曌}}''')。則天は[[諡|諡号]]に由来した通称である('''則天'''大聖皇帝、または'''則天'''順聖皇后に由来)。
 
日本では'''則天武后'''(そくてんぶこう)と呼ばれることが多いが、この名称は彼女が自らの遺言により皇后の礼をもって埋葬された事実を重視した呼称である。古来は「則天」と通称のみで姓名をはっきりさせず呼ばれてきたが、現在の中国では姓を冠して「武則天」と呼ぶことが一般的になっている{{Efn2|一例として、台湾ドラマ『一代女皇』と大陸ドラマ『武則天』の題名の対比が挙げられる。}}{{Efn2|その他の名前としては、唐の第2代皇帝[[太宗 (唐)|太宗]]に「媚」と名付けられ、第3代皇帝高宗には「昭儀」と号された他、自ら尊号「天后」を受けた。武周建国以降は、聖母神皇、聖神皇帝、則天大聖皇帝、金輪聖神皇帝、越古金輪聖神皇帝、慈氏越古金輪聖神皇帝、天冊金輪聖神皇帝などがある。}}。
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== 後世の評価 ==
開元4年(716([[716]])に武則天の子であった[[太上皇]]の[[睿宗 (唐)|睿宗]]が没すると、[[玄宗 (唐)|玄宗]]は武則天の[[諡号]]から「皇帝」を除き、武則天の政策の否定や、彼女や武氏に粛清された人々の名誉回復に動き始めた<ref>金子修一「玄宗の祭祀と則天武后」古瀬奈津子 編『東アジアの礼・儀式と支配構造』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-04628-2</ref>。
 
後世の中国社会や[[文人]]界においては、女性でありながら君権の上に君臨し、唐室の帝位を簒奪した武則天の政治的遍歴に対する評価はおおむね否定的であり続け、簒奪に失敗した韋后の行実と併せて'''[[武韋の禍]]'''と呼ばれるなど、負のイメージで語られることが多かった。治世中の事績に関しても、彼女が施政した時代に[[浮戸]]や[[逃戸]]が増大したこと、[[田籍]]の把握が等閑になって[[隠田]]の増加と[[均田制]]の実施困難を招いたこと、自身の氏族を要職に就けて政治をほしいままにしたことなどについて、現在も厳しい評価を受けている。
 
一方で、長年の課題であった高句麗を滅ぼし、唐の安定化に寄与した事実は見逃せない功績であるが、それは高宗がまだ重篤に陥っていなかった668年のことである。また、彼女が権力を握っている間には[[農民反乱]]は一度も起きておらず、[[貞観 (唐)|貞観]]の末より戸数が減らなかったことから、民衆の生活はそれなりに安定していたと見る向きもある。加えて、彼女の人材登用能力が後の歴史家も認めざるをえないほどに飛びけていたことは事実であり、彼女の登用した数々の人材が玄宗時代の[[開元の治]]を導いたことも特筆に値する。歴史上にもわずかながら、彼女について「不明というべからず」と評した[[南宋]]の[[洪邁]]([[毛沢東]]が愛読)や「女中英主」と評価した[[清]]代の[[趙翼]](現有制度の打破を叫んだ)のように、武則天に対して肯定的な評価を下した者も存在した。[[毛沢東]]夫人で[[文化大革命]]を指揮した[[江青]]に至っては、毛沢東の死後に後継者にならんとする野望を持っていたため、名実ともに中国の国政を握った武則天を自らに重ね、これを称賛する運動を興した。江青と文革は共産党に否定されたが、武則天を主人公とした連続テレビドラマも製作された([[#テレビドラマ|参照]])。
 
== 登場作品 ==