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===蜻蛉日記後の生活===
[[貞元 (日本)|貞元]]2年([[977年]])10月に[[近衛大将|右大将]]兼家は[[関白]][[藤原兼通]]に[[治部省|治部卿]]に左遷され、共に道綱も[[土佐国|土佐権守]]に左遷される<ref>『[[日本紀略]]』円融院 天元二年十月十一日</ref>。その時に兼家は円融天皇に嘆願の[[長歌]]を贈るが<ref>{{Cite web| url =https://lapis.nichibun.ac.jp/waka/waka_i003.html| title = 拾遺集| publisher =国際日本文化研究センター(日文研)| accessdate = 2023-12-2}}</ref>その長歌の詠作に道綱母の助力があった可能性が指摘される{{sfn|『蜻蛉日記の研究』|p=566}}。同3年([[978年]])に兼家次女の[[藤原詮子|詮子]]が入内したのち、<ref>日本紀略』円融院貞元3年8月17日</ref>兼家は[[右大臣]]に任官し<ref>『日本紀略』円融院貞元3年10月2日</ref>道綱は元の[[衛門府|左衛門佐]]に戻った。[[天元 (日本)|天元]]3年([[980年]])に[[女御]]詮子が円融天皇の第一皇子の[[一条天皇|懐仁親王]]を産んだ。道綱母の歌集中にある『当代の御五十日の祝』に猪の置物を贈ったのはこの時だと考えられている<ref name="あ">『[[新編国歌大観]]「道綱母集」』</ref><ref>{{Citation| author =内野信子| title =蜻蛉日記「巻末歌集」を読む:日記の外周に道綱母を尋ねて| publisher =鶫書房| date =2021| pages =66-69| isbn =9784909603203}}</ref>。[[寛和]]2年([[986年]])の[[寛和二年内裏歌合]]に道綱の歌を代作する<ref name="あ"/><ref>『新編国歌大観「内裏歌合 寛和二年」』</ref>。同年6月23日に起こった[[寛和の変]]では、[[藤原道兼]]が僧の厳久と共に[[花山天皇]]に従い[[元慶寺|花山寺]]に向かう間に、道綱が[[三種の神器]]を[[凝華舎]]にいる[[東宮]]に渡し、東宮が[[践祚]]([[一条天皇]])した<ref>『[[扶桑略記]]』花山院</ref>。6月24日に天皇の外祖父の兼家は[[摂政]]となり<ref>『[[公卿補任]]』寛和二年</ref>7月5日に母の女御詮子は[[皇太后]]となった<ref>『扶桑略記』一条院寛和二年七月五日</ref>この時に皇太后の[[宣旨 (役職)|宣旨]]となった詮子の異母姉妹が、道綱母の養女だとする説がある<ref>{{Cite journal|和書|author=諸井彩子 |date=2014-11 |url=https://doi.org/10.32152/chukobungaku.94.0_62 |title=宣旨女房考 |journal=中古文学 |ISSN=02874636 |publisher=中古文学会 |volume=94 |pages=62-79 |doi=10.32152/chukobungaku.94.0_62 |CRID=1390282763115483392 |accessdate =2023-12-2}}</ref>
 
===晩年===