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重四郎一家は[[埼玉県]][[川越市]]に在住していたが、小宮山家の元々の出自は[[山梨県]][[甲府市]]である([[甲州財閥|甲州商人]]の項も参照)。
*[[小宮山常吉]](つねきち) 父。[[1882年]]10月18日山梨県生まれ。山梨県にて[[絹]]仲介業を営んでいたが、後に一家で上京、商店勤務、機械製造販売業を経て、[[1928年]]、長男の英蔵とともに[[屑鉄]]・[[スクラップ]]業「小宮山商店」を創業し成功を収める。更に足立鋼管、足立産業、昭和鋼管の社長を歴任した。[[1947年]]4月、英蔵の後援を得て[[第1回参議院議員通常選挙]]に[[山梨県選挙区|山梨県地方区]]から無所属で立候補し当選。1期務める。院内会派「[[緑風会]]」に所属し、参議院大蔵委員会委員などを歴任した。議員引退後は再び英蔵の事業に参画し、武蔵野開発社長、[[武蔵野ゴルフクラブ]]社長。[[1974年]]4月24日没。
*小宮山英蔵 長兄。[[1912年]]9月25日山梨県生まれ。[[尋常小学校]]卒業後、一家で上京。[[東京市]]役所第一[[副市町村長|助役]]室給仕を務めながら苦学の末、旧制日本大学工業学校(旧制日本大学が設置していた[[夜学]]の[[実業学校]])卒業。[[1928年]]、父とともに屑鉄・スクラップ業「小宮山商店」を創業し、実業家として成功する。戦後は[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]嘱託となり、日本清掃作業組合を設立。全国の旧[[軍需工場]]の解体とスクラップ鉄回収を一手に請け負う。この事業で得た資金を元手に、[[1947年]]に父を政界に進出させ、[[1949年]]には殖産会社東北林業を買収し、日本殖産[[株式会社]]に商号変更。更に同年、同社を[[金融業]]に業態変更し、平和貯蓄殖産[[無尽]]と改称、[[1951年]]、[[相互銀行法]]施行に伴いこれを[[相互銀行]]に移行させ、商号を[[平和相互銀行]]と改称し代表取締役社長、更に会長となる。[[太平洋クラブ]]をはじめとする子会社を設立し、「小宮山[[コンツェルン]]」と称された[[企業グループ]]を形成。太平洋クラブ取締役、[[クラウンライター]]会長など「小宮山コンツェルン」の総帥として[[財界]]に重きをなした。[[五島慶太]]・[[小佐野賢治]]・[[瀬島龍三]]らとともに「[[政商]]」の一人に数え上げられることも多く、[[平成研究会|竹下派]]ら[[政界]]関係者とも深くかかわりを持ち、重四郎の政界進出を後援した。[[1979年]]6月26日急死。英蔵の死後、平和相銀グループは後継を巡って遺族・経営陣による内紛が起き、「小宮山コンツェルン」の崩壊へとつながった。
*小宮山美佐子 英蔵の妻。
**池田良子 英蔵・美佐子夫妻の長女。