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== 生涯 ==
古人大兄皇子は、[[皇極天皇|宝皇女]]から生まれた異母弟妹の[[天智天皇|葛城皇子]]、[[間人皇女]]、[[天武天皇|大海人皇子]]とは異なり、[[蘇我馬子]]の娘・[[蘇我法提郎女]]を母にもつ嫡子であり、本来の皇位継承の候補者であった<ref>荒木敏夫「古人大兄皇子論」(『国立民俗歴史博物館研究報告』第179集、2013年11月)</ref>。そのため大臣・[[蘇我蝦夷]]の子である入鹿は、当然古人大兄皇子を[[斉明天皇|皇極天皇]]の次期[[天皇]]に擁立しようと望んだ。従来は、古人大兄皇子に対抗しうる有力な皇位継承資格者・[[山背大兄王]](『[[上宮聖徳法王帝説]]』では厩戸皇子([[聖徳太子]])の子であるとされるが、『[[日本書紀]]』にはそのような記述はない)の存在が邪魔になり、[[643年]]11月、入鹿は[[斑鳩宮]]を襲い山背大兄王とその一族を滅ぼしたとされていた。しかし現在は、山背大兄王が蘇我氏以外の天皇や豪族たちからも皇位継承を望まれなかったのは、山背大兄王が[[用明天皇]]の2世王に過ぎず、既に天皇位から離れて久しい王統であったからであり、加えて、このような王族が斑鳩と言う交通の要衝に多数盤踞して独自の政治力と巨大な経済力を擁しているというのは、天皇や[[蘇我氏]]といった支配者層全体にとっても望ましいことではなかったからであるとされている<ref>倉本一宏『蘇我氏 古代豪族の興亡』(中央公論新社、2015年)</ref>。
 
[[645年]]6月、[[三韓]]から進貢の使者が来日し、宮中で儀式が行なわれた。古人大兄皇子は皇極天皇の側に侍していたが、その儀式の最中、異母弟・中大兄皇子([[天智天皇]])、中臣鎌子([[藤原鎌足]])らが蘇我入鹿を暗殺する事件が起きた。古人大兄皇子は私宮([[大市宮]])へ逃げ帰り「韓人が入鹿を殺した。私は心が痛い」(「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣」)と言った。入鹿の父の[[蘇我蝦夷]]も自邸を焼いて自殺して蘇我本家は滅び、古人大兄皇子は後ろ盾を失った([[乙巳の変]])。
 
事件後、皇極天皇退位を受けて皇位に即く事を勧められたがそれを断り、[[出家]]して[[吉野]]へ隠退した。代わりに皇位には軽皇子([[孝徳天皇]])が就いた。
 
しかし、同年9月12日 [[吉備笠垂]](きびのかさのしだる)から「古人大兄皇子が[[謀反]]を企てている」との密告を受け、中大兄皇子が攻め殺させたとされる<ref name="討伐結果">古人大兄を「討たせた」結果の「死」について、日本書紀の編者は「ある本」二書に語らせるのみで、直接的言及はなされていない。「ある本」一書に、11月30日の事として中大兄が討伐を命じ、古人大兄を殺させた旨が記されている。 - 「巻第二十五 孝徳天皇 古人大兄の死」 『日本書紀(下)全現代語訳』 宇治谷 孟訳(講談社学術文庫)1988年、164頁</ref>。