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== 生涯 ==
古人大兄皇子は、[[皇極天皇|宝皇女]]から生まれた異母弟妹の[[天智天皇|葛城皇子]]、[[間人皇女]]、[[天武天皇|大海人皇子]]とは異なり、
[[645年]]6月、[[三韓]]から進貢の使者が来日し、宮中で儀式が行なわれた。古人大兄皇子は皇極天皇の側に侍していたが、その儀式の最中、異母弟・中大兄皇子([[天智天皇]])、中臣鎌子([[藤原鎌足]])らが蘇我入鹿を暗殺する事件が起きた。古人大兄皇子は私宮([[大市宮]])へ逃げ帰り「韓人が入鹿を殺した。私は心が痛い」(「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣」)と言った。入鹿の父の[[蘇我蝦夷]]も自邸を焼いて自殺して蘇我本家は滅び、古人大兄皇子は後ろ盾を失った([[乙巳の変]])。
事件後、皇極天皇退位を受けて皇位に即く事を勧められたがそれを断り、[[出家]]して[[吉野]]へ隠退した。代わりに皇位には軽皇子([[孝徳天皇]])が就いた。
しかし、同年9月12日 [[吉備笠垂]](きびのかさのしだる)から「古人大兄皇子が[[謀反]]を企てている」との密告を受け、中大兄皇子が攻め殺させたとされる<ref name="討伐結果">古人大兄を「討たせた」結果の「死」について、日本書紀の編者は「ある本」二書に語らせるのみで、直接的言及はなされていない。「ある本」一書に、11月30日の事として中大兄が討伐を命じ、古人大兄を殺させた旨が記されている。 - 「巻第二十五 孝徳天皇 古人大兄の死」 『日本書紀(下)全現代語訳』 宇治谷 孟訳(講談社学術文庫)1988年、164頁</ref>。
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