「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」の版間の差分

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[[ファイル:Gedenkplaat.jpg|thumb|240px|慰霊の碑文(オランダ語)。「この地を永遠に絶望の叫びとし、人類への警告とせよ。ナチスはここで、ヨーロッパ各国のユダヤ人を中心に、およそ150万人の男女と子供を殺害した」]]
 
ニュルンベルク裁判では、ソ連から起訴状において「アウシュヴィッツで'''400万人'''が死亡した絶滅され」と報告記述されてい<ref>https://avalon.law.yale.edu/imt/count3.asp About 1,500,000 persons were exterminated in Maidanek and about 4,000,000 persons were exterminated in Auschwitz, among whom were citizens of Poland, the U.S.S.R., the United States of America, Great Britain, Czechoslovakia, France, and other countries.</ref>が、判決文では「400万人」は触れられず、アウシュヴィッツ収容所司令官だった[[ルドルフ・フェルディナント・ヘス|ルドルフ・ヘス]]「アウシュヴィッツ収容所だけで'''250万人'''(+が絶滅され、さらに50万人が死・気と飢者50万人)を亡したと見積もっている」と証言していたとして記載されただけだった。アウシュヴィッツ国立博物館の記念石碑には「400万人」と記載されていたが、1990年に撤去され、1995年に「'''150万人'''」に改められた。これは、アウシュヴィッツ博物館の歴史部門の責任者だったフランシスチェク・ピーパー博士による犠牲者数の研究結果を受け入れたものであり、「150万人」はその犠牲者数推計値の誤差を含めた最大値である<ref>https://avalon.law.yale.edu/imt/judwarcr.asp With regard to Auschwitz, the Tribunal heard the evidence of Hoess, the Commandant of the camp from 1st May, 1940, to 1st December, 1943. He estimated that in the camp of Auschwitz alone in that time 2,500,000 persons were exterminated, and that a further 500,000 died from disease and starvation. </ref>
 
アウシュヴィッツ国立博物館の記念石碑には「400万人」と記載されていたが、1990年に撤去され、1995年に「'''150万人'''」に改められた。これは、アウシュヴィッツ博物館の歴史部門の責任者だったフランシスチェク・ピーパー博士による犠牲者数の研究結果を受け入れたものであり、「150万人」はその犠牲者数推計値の誤差を含めた最大値である。ただし、ピーパーの研究成果として一般的に認められているアウシュヴィッツ収容所の犠牲者数は'''110万人'''である<ref>https://www.nli.org.il/en/articles/RAMBI990000434160705171/NLI Estimating the number of deportees to and victims of the Auschwitz-Birkenau camp, Franciszek Piper</ref>。
ただし、ピーパーの研究成果として一般的に認められているアウシュヴィッツ収容所の犠牲者数は'''110万人'''である。
アウシュヴィッツ国立博物館の公式ページでは、1999年の研究により1944年までに強制収容されたユダヤ人は110万人であり、うち20万人は労働に供されたと書かれている<ref>http://auschwitz.org/en/history/the-number-of-victims/ As a result of the inclusion of Auschwitz in the process of the mass extermination of the Jews, the number of deportees began to soar. About 197 thousand Jews were deported there in 1942, about 270 thousand the following year, and over 600 thousand in 1944, for a total of almost 1.1 million. Among them, about 200 thousand people were selected as capable of labor and registered as prisoners in the camp</ref>。
 
アウシュヴィッツ国立博物館の公式ページには、「少なくとも130万人が収容所に強制送還され、そのうち少なくとも110万人が死亡した。死亡者数は150万人とも言われている」と記載されている<ref>https://www.auschwitz.org/en/history/kl-auschwitz-birkenau/the-topography-of-the-camp/ At least 1,300,000 people were deported to the camp, of whom at least 1,100,000 perished. Some estimates of the number killed are as high as 1,500,000.</ref>。
これら以外のアウシュヴィッツの死亡者数の推定について記載する。
 
終戦直後の1945年当時にソ連が主張した'''400万人'''という数は、[[ニュルンベルク裁判]]にソ連の調査委員会が作成したとされるアウシュヴィッツ収容所に関する報告書に記載されているものであるが、この400万人という犠牲者数は、複数の元囚人が証言している数字(ただし元囚人はその数字を推測、あるいは伝聞だと語っている)でもあり、ソ連の報告書では火葬能力からの推計値となっているものの、その火葬能力自体の算定根拠の記載がないことや、アウシュヴィッツに強制移送されたそれら追放者の数もまったく示していないことなどから、それら元囚人の証言にある「400万人」を採用したのではないかと推測される。
'''125万人説'''
 
なお、ニュルンベルク裁判の法廷では、司令官ルドルフ・ヘスは「250万人」(と餓死・病死による死者数50万人)と証言していたが、ニュルンベルク裁判での勾留中に、囚人の心理観察を行なっていたグスタフ・ギルバートに対してヘスは「'''最大でも150万人'''」と語っており、またヘスはポーランドでの勾留中に自身の回想録を書いており、そこでは合計「'''113万人'''」の犠牲者数を述べている。また、ヘスはニュルンベルク裁判や回想録で、「250万人」はアイヒマンが語ったものだとしており、1945年4月頃ベルリン包囲直前に、親衛隊の強制収容所総監であったリヒャルト・グリュックス親衛隊中将にアイヒマンがそう語っているのを見たからだ、と述べている<ref>ルドルフ・ヘス 『アウシュヴィッツ収容所』講談社〈講談社学術文庫〉、2019年6月4日、399頁</ref>
[[ラウル・ヒルバーグ]]([[:en:Raul Hilberg|Raul Hilberg]])による。
 
「100万人」のユダヤ人と「25万人」の非ユダヤ人の合計「125万人」が殺された。
 
'''120万人説'''
 
ユネスコの世界遺産に登録された人数。(2007年)
 
'''80万から90万人説'''
 
ジェラルド・ライトリンガー([[:en:Gerald Reitlinger|Gerald Reitlinger]])による。
 
'''63万人から71万人説'''
 
ジャン・クロード・プレサック([[:en:Jean-Claude Pressac|Jean-Claude Pressac]])による。
 
(そのうちガス室の犠牲者は47万人から55万人であった)
 
'''50万人説'''
 
フリツォフ・メイヤー([[:de:Fritjof Meyer|Fritjof Meyer]])による。
 
(そのうちガス室の犠牲者は35万人であった)
 
'''15万人説(その内の10万人がユダヤ人)'''
 
アーサー・R・バッツ([[:en:Arthur R. Butz|Arthur R. Butz]])など[[歴史修正主義|歴史修正主義者]]による。
 
「死亡者は15万人に達し、そのうち10万がユダヤ人であった。彼らは殺されたのではない。病気により死亡したのである。」
 
終戦直後の1945年当時にソ連が主張した'''400万人'''という数は、ニュルンベルク裁判にソ連の調査委員会が作成したとされるアウシュヴィッツ収容所に関する報告書に記載されているものであるが、この400万人という犠牲者数は、複数の元囚人が証言している数字(ただし元囚人はその数字を推測、あるいは伝聞だと語っている)でもあり、ソ連の報告書では火葬能力からの推計値となっているものの、その火葬能力自体の算定根拠の記載がないことや、アウシュヴィッツに強制移送されたそれら追放者の数もまったく示していないことなどから、それら元囚人の証言にある「400万人」を採用したのではないかと推測される。
 
なお、ニュルンベルク裁判の法廷では、司令官ルドルフ・ヘスは「250万人」(と餓死・病死による死者数50万人)と証言していたが、ニュルンベルク裁判での勾留中に、囚人の心理観察を行なっていたグスタフ・ギルバートに対してヘスは「'''最大でも150万人'''」と語っており、またヘスはポーランドでの勾留中に自身の回想録を書いており、そこでは合計「'''113万人'''」の犠牲者数を述べている。また、ヘスはニュルンベルク裁判や回想録で、「250万人」はアイヒマンが語ったものだとしており、1945年4月頃に、親衛隊の強制収容所総監であったリヒャルト・グリュックス親衛隊中将にアイヒマンがそう語っているのを見たからだ、と述べている。
 
== 否認主義(または修正主義) ==