「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」の版間の差分

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{{main|ナチス・ドイツの人体実験}}
== 死体焼却施設(火葬場、クレマトリウム) ==
=== 火葬場1(アウシュヴィッツ第一収容所(基幹収容所)) ===
強制収容所では大量虐殺が行われたため大量の死体処理が問題になったが、この死体を無差別に大量火葬する施設が[[クルト・プリューファー]]のもと[[トップフ・ウント・ゼーネ]]社により建設された<ref>{{cite journal|title= 「最終的解決」の技術者たち|url= http://id.nii.ac.jp/1197/00000204/|author2= 柴嵜 雅子 |author1= フォルクハルト クニッゲ|year=2008|journal= 国際研究論叢 : 大阪国際大学紀要|volume=21|issue=3}}</ref>。
アウシュヴィッツ収容所で設営された最初の火葬場は、アウシュヴィッツ第一収容所に現在も観光用に公開されている火葬場1である。この火葬場は1940年6月ごろ、元々ポーランド軍が弾薬庫として使っていた建造物を改修して作られた。火葬炉の設計・製作担当会社は[[トップフ・ウント・ゼーネ]]社(技術担当責任者は[[クルト・プリューファー]])であり、最初は炉(マッフル)が二つある火葬炉を2基設置していた。また火葬炉のある部屋のすぐ隣にある部屋は死体安置所が設定された。
 
翌年9月頃の図面では、もう一基の火葬炉を追加して、合計3基(マッフルの数は6箇所)が描かれており、正確な時期は不明であるが、この設計通りに追加設置された。
強制収容所では大量虐殺が行われたため大量の死体処理が問題になったが、この死体を無差別に大量火葬する施設が[[クルト・プリューファー]]のもと[[トップフ・ウント・ゼーネ]]社により建設された<ref>{{cite journal|title= 「最終的解決」の技術者たち|url= http://id.nii.ac.jp/1197/00000204/|author2= 柴嵜 雅子 |author1= フォルクハルト クニッゲ|year=2008|journal= 国際研究論叢 : 大阪国際大学紀要|volume=21|issue=3}}</ref>。
 
火葬場Ⅰの火葬炉は1943年7月頃まで使用された後、ビルケナウでのユダヤ人絶滅が本格化すると使用が中止され、翌年中頃にはガス室として使用していた死体安置所があった箇所を中心に大幅に改良して防空壕とするとともに、火葬炉を一旦解体し、煙突なども撤去していた。従って、現在の状態は戦後にポーランド当局がガス室のあった時の状態に復元工事を行なったものである。煙突もその時に再建されている。
 
=== 火葬場Ⅱ〜Ⅴ(アウシュビッツ第二収容所(ビルケナウ収容所)) ===
第2収容所であるビルケナウ収容所の建設が進み、1942年中頃になると、ビルケナウでも火葬場建物の建設が始まった。当初の計画では、ビルケナウ収容所には多くのソ連兵捕虜を収容する予定だったので、ソ連兵捕虜用の大型火葬場建物(火葬場Ⅱ)を一棟のみ建てる予定だったが、ビルケナウでのユダヤ人絶滅が本格化するのに合わせて、合計4棟の火葬場が1943年6月頃にかけて建設されることとなった。これら火葬場の火葬炉の仕様は以下の通りである。
 
* 火葬場Ⅱ・Ⅲ・・・火葬炉の数は各5基、1基についての炉(マッフル)の数は3箇所。トータルではⅡ、Ⅲ合わせて30箇所のマッフルがあることになる。
* 火葬場Ⅳ・Ⅴ・・・火葬炉の数は各2基、1基についての炉(マッフル)の数は4箇所。トータルではⅡ、Ⅲ合わせて16箇所のマッフルがあることになる。
 
従って、ビルケナウだけで46箇所のマッフルがあることになる。これらの火葬場の火葬能力については、アウシュヴィッツ親衛隊中央建設部による文書が残されており、第1火葬場と合わせて、日あたり合計4,756体の遺体を火葬可能とするものであった。
 
ビルケナウの4つの火葬場は、ソ連軍の進行に伴って1944年12月頃から解体作業が始まり、翌年1月のソ連による収容所解放を前にして、親衛隊が撤収する前に全てダイナマイトによって破壊された。
 
=== 野外での死体焼却 ===
アウシュヴィッツでのユダヤ人絶滅が開始された時期については、はっきりしたことは不明であるものの、1942年の春頃から、ビルケナウの敷地外での二軒の農家(稼働開始日は異なる)を改造して作られたガス室である「ブンカー」から始まったとされる。この場所を使用してユダヤ人の大量殺戮を行っていた当初は、これらの死体を焼却処分するつもりはなく、単に壕を掘って埋めていただけであった。しかし、夏頃になると遺体の腐敗が進んで、土壌や地下水を汚染することになってしまった。そこで、ヒムラーからの命令により、これらの死体を全て再度掘り起こして、焼却処分することになったのである。この焼却処分はアウシュヴィッツだけの問題ではなかったようで、ソ連地域で前年から実施されていた現地でのユダヤ人虐殺による大量埋葬墓や、ヘウムノ収容所から始まったアウシュヴィッツ以外の絶滅収容所でも同様であった。そこで、親衛隊は、アインザッツグルッペンBの指揮官の一人であった、パウロ・ブローベル大佐指揮の元、野外での効率的な死体焼却の考案と実施を進めたのである。アウシュヴィッツの司令官ヘスらは、当初、ブローベル大佐によって進められていたヘウムノでの死体焼却現場を視察、その後ビルケナウのブンカーでの大量埋葬墓について、死体焼却が勧められたのであった。
 
ヘスの自伝によると、この時に焼却された遺体の数は合計10万7000体だったとのころである。
 
この野外火葬は、ビルケナウの大型火葬場が本格稼働すると中止されたが、1944年5月に始まった、ハンガリーユダヤ人の絶滅作戦では、あまりにも遺体が多すぎたため、再度、野外火葬を行って、それらの死体の大半を野外で焼却することとなった。
 
== 赤十字国際委員会(ICRC)とドイツ赤十字(DRK) ==