「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」の版間の差分

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Satoru.na (会話 | 投稿記録)
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アウシュヴィッツでのユダヤ人絶滅が開始された時期については、はっきりしたことは不明であるものの、1942年の春頃から、ビルケナウの敷地外での二軒の農家(稼働開始日は異なる)を改造して作られたガス室である「ブンカー」から始まったとされる。この場所を使用してユダヤ人の大量殺戮を行っていた当初は、これらの死体を焼却処分するつもりはなく、単に壕を掘って埋めていただけであった。しかし、夏頃になると遺体の腐敗が進んで、土壌や地下水を汚染することになってしまった。そこで、ヒムラーからの命令により、これらの死体を全て再度掘り起こして、焼却処分することになったのである。この焼却処分はアウシュヴィッツだけの問題ではなかったようで、ソ連地域で前年から実施されていた現地でのユダヤ人虐殺による大量埋葬墓や、ヘウムノ収容所から始まったアウシュヴィッツ以外の絶滅収容所でも同様であった。そこで、親衛隊は、アインザッツグルッペンBの指揮官の一人であった、パウロ・ブローベル大佐指揮の元、野外での効率的な死体焼却の考案と実施を進めたのである。アウシュヴィッツの司令官ヘスらは、当初、ブローベル大佐によって進められていたヘウムノでの死体焼却現場を視察、その後ビルケナウのブンカーでの大量埋葬墓について、死体焼却が進められたのであった。
 
ヘスの自伝によると、この時に焼却された遺体の数は合計10万7000体だったとのこである。
 
この野外火葬は、ビルケナウの大型火葬場が本格稼働すると中止されたが、1944年5月に始まった、ハンガリーユダヤ人の絶滅作戦では、あまりにも遺体が多すぎたため、再度、野外火葬を行って、それらの死体の大半を野外で焼却することとなった。