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==生涯==
[[1680年]]に[[陳永華]]、[[1681年]]鄭経が相次いで死去すると、重臣の[[馮錫範]]が鄭経の従兄弟達と組んでクーデターを起こした。[[監国]]の[[鄭克ゾウ|鄭克𡒉]]を殺し、わずか十二歳の鄭克塽を[[延平郡王]]とした。
 
[[1683年]]、[[清朝]]の[[水師]][[提督]][[施琅]]が[[澎湖海戦]]において大いに鄭軍の艦隊を破り[[澎湖諸島]]を占領すると、鄭軍の主将[[劉国軒]]は、[[台湾]]に逃げ戻った。馮錫範は遂に鄭克塽に清に降ることを勧めた。7月5日、馮錫範は[[鄭徳瀟]]に命じて降表を書かせた。7月15日、馮錫範は将である鄭克塽を施琅に送った。8月13日、施琅は台湾に入り降伏を受け入れた。その後、鄭克塽は[[北京]]に赴き[[漢軍八旗|漢軍正紅旗]]に組み入れられ、'''海澄公'''<ref>『清史稿』では「漢軍公」とあるが、「諸臣封爵世表」では「海澄公」としてありこれが正しい。</ref>に封じられた。[[康熙]]46年([[1707年]])、鄭克塽は病没した。爵位を継ぐ者はいなかった。
 
鄭克塽は馮錫範の娘を娶り、[[鄭安福]]をもうけた。弟は[[鄭克挙]]である。鄭克塽の死後その母の黄氏は清朝に鄭家の財産を戻すことを要求したが受け入れられなかった。
 
台湾の著名な詩人である[[鄭愁予]]は、鄭克塽の子孫である。