「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」の版間の差分

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アウシュヴィッツ収容所の跡地である博物館は、世界的にも「オシフィエンチム国立博物館」や「オシフィエンチム博物館」とは言わず、「アウシュヴィッツ・ビルケナウ国立博物館(Auschwitz-Birkenau State Museum)」と呼ばれている。公式ページにもそう記載されている。そこで、当該記述を正式名称「アウシュヴィッツ・ビルケナウ国立博物館」とし、略記として「アウシュヴィッツ博物館」との表記に変更した。
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'''アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所'''(アウシュヴィッツ ビルケナウ きょうせいしゅうようじょ、{{lang-de|Das Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau}}、{{lang-pl|Obóz Koncentracyjny Auschwitz-Birkenau}})は、[[ナチス・ドイツ]]が[[第二次世界大戦]]中に国家を挙げて推進した[[人種差別]]による絶滅政策([[ホロコースト]])および[[強制労働]]により、最大級の犠牲者を出した[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]である。収容者の90%が[[ユダヤ人]]([[アシュケナジム]])であった。
 
アウシュヴィッツ第一強制収容所は、ドイツ占領地の[[ポーランド]]南部[[オシフィエンチム]]市(ドイツ語名アウシュヴィッツ{{efn2|「アウシュビッツ」と表記している日本の歴史[[教科書]]もある。たとえば、『中学社会 歴史』([[教育出版]]株式会社。[[文部省]]検定済教科書。中学校社会科用。平成8年2月29日文部省検定済。平成10年1月10日印刷。平成10年1月20日発行。教科書番号17教出・歴史762)p 255では「また, 各国のユダヤ人は, ユダヤ人であるという理由だけでアウシュビッツなどの強制収容所に入れられて虐殺された。」と記載されている。}})に、アウシュヴィッツ第二強制収容所は隣接する[[ブジェジンカ]]村(ドイツ語名ビルケナウ)に作られた。周辺には同様の施設副収容所多数建設されている50箇所程度存在した。[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産委員会]]は、二度と同じような過ちが起こらないようにとの願いを込めて、1979年に[[世界遺産]]リストに登録した。公式な分類ではないが、日本ではいわゆる「[[負の世界遺産]]」に分類されることがしばしばである<ref>[[世界遺産アカデミー]]監修 (2012) 『すべてがわかる世界遺産大事典・上』[[マイナビ]]、p.23</ref>。一部現存する施設は「ポーランドアウシュヴィッツ・ビルケナウ国立博物館([[:en:Auschwitz-Birkenau State Museum]])」(以降、「アウュヴエンチムッツ博物館」と表記)が管理・公開している。
 
この項では、ビルケナウに限定せず、これらのアウシュヴィッツ収容所群全体について述べる。
 
== 概要 ==
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ファイル:Bundesarchiv_Bild_183-N0827-318%2C_KZ_Auschwitz%2C_Ankunft_ungarischer_Juden.jpg|ハンガリーから到着したユダヤ人。(1944年)
ファイル:Plan_situation_3Auschwitz.jpg|オシフィエンチムの市街地をとりまくように造られた施設群。とりわけ第二強制収容所の規模が大きい。
ファイル:Cremator inside the crematorium Auschwitz I.jpg|復元された焼却炉。(アウュヴエンチムッツ博物館展示)
</gallery>
 
== 経過 ==
[[ファイル:Gallows on which Rudolf Hoess was executed - Auschwitz I.jpg|right|240px|thumb|ヘスの絞首刑台(アウュヴエンチムッツ博物館展示)]]
*[[1940年]]1月25日 - ポーランド・オシフィエンチム市郊外の強制収容所建設を決定。
*[[1940年]]5月20日 - 「アウシュヴィッツ第一強制収容所(基幹収容所)」{{efn2|アウシュヴィッツ全体を管理する組織が置かれていたため、基幹収容所と呼ばれる。}}が[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]](SS)全国指導者[[ハインリヒ・ヒムラー]]の指示により、ドイツ国防軍が接収したポーランド軍兵営の建物を利用して開所。強制収容所における画一的な管理システム、いわゆる「[[ダッハウ強制収容所|ダッハウモデル]]」を踏襲している。初代所長は、SS中佐[[ルドルフ・フェルディナント・ヘス]]{{efn2|1943年12月まで所長として強制収容所を指揮。後任は[[アルトゥール・リーベヘンシェル]]。さらにその後任で最後の所長は[[リヒャルト・ベーア]](戦後、[[フランクフルト・アウシュビッツ裁判|フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判]]で被告となるが収監中に死亡)。}}。[[ザクセンハウゼン]]強制収容所から移送された犯罪常習者30人が、最初の被収容者となった。
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=== 登録 ===
[[ファイル:Koncentračný tábor Auschwitz-Birkenau 9.JPG|right|240px|thumb|収容の際に撮影された被収容者たち。縦じまの囚人服には、分類のためのマークがつけられている(アウュヴエンチムッツ博物館展示)]]
即刻の処分を免れた被収容者は、男女問わず頭髪をすべて刈り、消毒、写真撮影{{efn2|「正面」「正面を向き視線を(撮影者から見て)左上に上げたもの」「横向き」の写真を撮影された。}}、管理番号を刺青するなど入所にあたっての準備や手続きを行う。管理番号は一人ひとりに与えられ、その総数は約40万件とされる。私物は「選別」の段階までに、戦争遂行に欠かせない資源としてすべて没収されており、与えられる縦じま(色は[[青]]と[[白]])の[[囚人服]]が唯一の所持品となる。最後に、人種別・性別などに分けられた収容棟に送られた。
 
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収容した側された側双方の証言によると、食料の奪い合いが個人やグループ間で日常的にあったとされる{{efn2|争いを避けるため被収容者間でパン屑の量まで計って配分したという証言もある<ref>『アウシュビッツの沈黙』 花元潔 [[東海大学出版部|東海大学出版会]] 2008年</ref>}}。公式には重労働者に2150キロカロリー、一般労働者に1700キロカロリーの食事を与えるという規定があったが、現場監督によって量は左右され、監視兵に厨房の食料を奪われるなど、実情はかけ離れていた<ref>『アウシュビッツ博物館案内』 [[中谷剛]] 凱風社 2005年</ref>。
 
配給量についてはさまざまな証言があり、ポーランド国立オアウュヴエンチムッツ博物館に展示されている「朝食:約50CCのコーヒーと呼ばれる濁った飲み物(コーヒー豆から抽出されたものではない)。昼食:ほとんど具のないスープ。夕食:300gほどの黒パン、3グラムのマーガリンなど<ref>[http://www1.linkclub.or.jp/~ttakeshi/porhtml/pora11.html アウシュヴィッツ徹底ガイド 6号棟その2「日々の生活」]{{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20071217072855/http://www1.linkclub.or.jp/~ttakeshi/porhtml/pora11.html |date=2007年12月17日 }}</ref>」は一例で、実際は被収容者間のヒエラルキーや個々の労働能力、さらには収容時期によって待遇にかなりの差があったと見るのが自然だろう{{独自研究?|date=2023年7月}}。実際、1943・1944年以降は「業績に連結した食料配給体制」{{efn2|各労働者の労働力を3つのランク(ランク1. 一般的ドイツ人の業績の100%以上、ランク2. 100% - 90%、ランク3. 90%以下)いずれかに評価し、ランクによる配給制度。産業界は生産性の向上を目的に労働者の再生産環境向上を1943年頃より求めている。背景には、食料自給状況の悪化のほかに、東部戦線の停滞さらには、ソ連軍の反攻による労働力確保の行き詰まりが挙げられる。}}が多くの労働者に対し実施されている。この制度は生産の全量的向上を目的としており、戦況悪化に伴い厳しくなった食料自給環境において、生産性の高い労働者に優先配給を行うというもの。
 
一般的ドイツ人の業績を基準に、業績の良い労働者に多く配給し、逆に悪い労働者は以前よりもさらに減らすというものだが、もともとほとんどの被収容者は一般成人が一日に必要とするカロリーに遠く及ばない量の食料{{efn2|たとえば、スラブ人に対しては、最低レベルに属するドイツ人労働者のさらに半分などと規定されていた。}}しか与えられていないなかで、比較すること自体無理があり、不幸にも減らされれば死は確実になるばかりである。生き抜くためにほんのわずかな増加分を得ようとする「人間の精神力」に期待しての制度であり、結果として被収容者同士が食料を奪い合うことが日常的にあったというのは、いかにその状況が過酷であったかを表している。
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しかし、ブロック11の地下室での実験は、換気に時間がかかるため、最初の実験の一度きりしか使用されず、代わりに基幹収容所の火葬場にあった死体安置所をガス室として使用することとなった。このガス室では、犠牲者がガス室に詰め込まれると、気密扉が閉められた後、天井に開けられた数箇所の穴から[[ツィクロンB]]が室内に投下された。
 
[[ファイル:Zyklon B Container.jpg|thumb|240px|チクロンBの缶(アウュヴエンチムッツ博物館展示)]]
この基幹収容所の第一ガス室は、基本的にはユダヤ人絶滅にはほとんど使用されなかったようである。ヘスによると、ユダヤ人絶滅が始まったのは、ビルケナウ敷地外の農家を改造して作られた「ブンカー」と呼ばれるガス室で、1941年1月のことだったと述べられている。続いて、続々とユダヤ人が移送されてくるようになると、少し離れたところにある別の農家を改造して二つ目の「ブンカー」でのユダヤ人絶滅が実施されるようになった。
 
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2016年には[[フランシスコ (ローマ教皇)|フランシスコ]]が訪問し「惨劇の場では言葉は無用」と「死の壁」の前や「聖コルベの監獄」の中で黙祷した。年間を通じ[[イスラエル人]]学生の[[修学旅行]]のルートになっている。
 
[[日本]]からの訪問も増えており、多くても200人程度だった年間訪問者が近年は5,000人を超えた。なお、日本国内にはポーランド国立オアウュヴエンチムッツ博物館から展示物を譲り受けた「[[アウシュヴィッツ平和博物館]]」が福島県白河市にある。
 
== アウシュヴィッツの死亡者数について==
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-R69919, KZ Auschwitz, Brillen.jpg|thumb|240px|おびただしい数の眼鏡フレーム。収容の際に没収されたもの(アウュヴエンチムッツ博物館展示)]]
[[ファイル:Img2179-1.jpg|thumb|240px|靴の山。女性もののサンダルも含まれている。(アウュヴエンチムッツ博物館展示)]]
[[ファイル:Gedenkplaat.jpg|thumb|240px|慰霊の碑文(オランダ語)。「この地を永遠に絶望の叫びとし、人類への警告とせよ。ナチスはここで、ヨーロッパ各国のユダヤ人を中心に、およそ150万人の男女と子供を殺害した」(アウシュヴィッツ博物館)]]
 
ニュルンベルク裁判では、起訴状において「アウシュビッツでは'''約400万人'''が絶滅され」と記述されていた<ref>https://avalon.law.yale.edu/imt/count3.asp About 1,500,000 persons were exterminated in Maidanek and about 4,000,000 persons were exterminated in Auschwitz, among whom were citizens of Poland, the U.S.S.R., the United States of America, Great Britain, Czechoslovakia, France, and other countries.</ref>が、判決文では「400万人」は触れられず、アウシュヴィッツ収容所司令官だった[[ルドルフ・フェルディナント・ヘス|ルドルフ・ヘス]]が「アウシュヴィッツ収容所だけで'''250万人'''が絶滅され、さらに50万人が病気と飢餓で死亡したと見積もっている」と証言していたとして記載されただけだった<ref>https://avalon.law.yale.edu/imt/judwarcr.asp With regard to Auschwitz, the Tribunal heard the evidence of Hoess, the Commandant of the camp from 1st May, 1940, to 1st December, 1943. He estimated that in the camp of Auschwitz alone in that time 2,500,000 persons were exterminated, and that a further 500,000 died from disease and starvation. </ref>。
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アウシュヴィッツ国立博物館の記念石碑には「400万人」と記載されていたが、1990年に撤去され、1995年に「'''150万人'''」に改められた。これは、アウシュヴィッツ博物館の歴史部門の責任者だったフランシスチェク・ピーパー博士による犠牲者数の研究結果を受け入れたものであり、「150万人」はその犠牲者数推計値の誤差を含めた最大値である。ただし、ピーパーの研究成果として一般的に認められているアウシュヴィッツ収容所の犠牲者数は'''110万人'''である<ref>[https://www.nli.org.il/en/articles/RAMBI990000434160705171/NLI Estimating the number of deportees to and victims of the Auschwitz-Birkenau camp, Franciszek Piper]</ref>。
 
アウシュヴィッツ国立博物館の公式ページには、「少なくとも130万人が収容所に強制送還され、そのうち少なくとも110万人が死亡した。死亡者数は150万人とも言われている」と記載されている<ref>https://www.auschwitz.org/en/history/kl-auschwitz-birkenau/the-topography-of-the-camp/ At least 1,300,000 people were deported to the camp, of whom at least 1,100,000 perished. Some estimates of the number killed are as high as 1,500,000.</ref>。
 
終戦直後の1945年当時にソ連が主張した'''400万人'''という数は、[[ニュルンベルク裁判]]にソ連から提出された、ソ連の戦争犯罪調査委員会が作成したとされるアウシュヴィッツ収容所に関する報告書<ref>[https://www.jrbooksonline.com/cwporter/ussr8.htm Translation of USSR-8 Soviet War Crimes Report on Auschwitz Nuremberg Trial - 6 May 1945]</ref>に記載されているものであるが、この400万人という犠牲者数は、複数の元囚人が証言している数字でもあり<ref>[https://www.zapisyterroru.pl/dlibra/publication/3783/edition/3764/content?navq=aHR0cDovL3d3dy56YXBpc3l0ZXJyb3J1LnBsL2RsaWJyYS9yZXN1bHRzP2FjdGlvbj1BZHZhbmNlZFNlYXJjaEFjdGlvbiZ0eXBlPS0zJnNlYXJjaF9hdHRpZDE9NjEmc2VhcmNoX3ZhbHVlMT1UYXViZXIrSGVucnlrJTVDJTNCKzA4LjA3LjE5MTclMkMrQ2hyemFuJUMzJUIzdyslNUMlMjhtYSVDNSU4Mm9wb2xza2llK3ZvaXZvZGVzaGlwJTVDJTI5JnBhZ2VGcm9tPWluZGV4c2VhcmNoJnA9MA&navref=MngzOzJ3aw ヘンリク・タウバーの証言]"I estimate that the total number of people who were gassed in Auschwitz amounts to about four million."(私は、アウシュビッツでガス処刑された人々の総数は約400万人に達すると推定している)</ref> <ref>[https://www.zapisyterroru.pl/dlibra/publication/3782/edition/3763/content?navq=aHR0cDovL3d3dy56YXBpc3l0ZXJyb3J1LnBsL2RsaWJyYS9yZXN1bHRzP3E9RHJhZ29uJmFjdGlvbj1TaW1wbGVTZWFyY2hBY3Rpb24mbWRpcmlkcz0mdHlwZT0tNiZzdGFydHN0cj1fYWxsJnA9MA&navref=MngyOzJ3aiAycDY7Mm9u シュロモ・ドラゴンの証言] "I believe that the number of people gassed in both bunkers and the four crematoria was over four million."(私は、ブンカーと4つの火葬場の両方でガス処刑された人の数は400万人を超えると考えている)</ref>、ソ連の報告書では火葬能力からの推計値となっているものの、その火葬能力自体の算定根拠の記載がないことや、アウシュヴィッツに強制移送されたそれら追放者の数もまったく示していないことなどから、それら元囚人の証言にある「400万人」を採用したのではないかと推測される。