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[[Image:Banat location.png|thumb|300px|ヨーロッパの地図に示されたバナトの位置]]
[[Image:Banat05.png|thumb|300px|バナトは三カ国にまたがっている。桃色がハンガリー領バナト、黄色がセルビア領バナト、青がルーマニア領バナト]]
'''バナト'''、'''バナート'''([[セルビア語]]:Банат{{lang-sr|Банат / Banat)Banat}})、'''バーナート'''ないし'''バーンシャーグ'''([[ハンガリー語]]:Bánát{{lang-hu|Bánát / Bánság)Bánság}})は、中央[[ヨーロッパ]]・[[東欧]]の地理的・歴史的な名称であり、[[パンノニア平原]]の一部を成す<ref>萩原直「バナト」[[柴宜弘]]・[[伊東孝之]]・[[南塚信吾]]・[[直野敦]]・[[萩原直]]監修『東欧を知る事典(新版)』[[平凡社]]、2015年、pp.399-400。ISBN 978-4-582-12648-8</ref><ref>木村真「〈31章〉国境を越える架け橋を目指して:バナト」柴宜弘編著『[[バルカン半島|バルカン]]を知るための66章:第2版』[[明石書店]]〈エリアスタディーズ〉、2016年、pp.172-176。ISBN 978-4-7503-4298-6</ref>。現在は、東部を[[ルーマニア]]、西部を[[セルビア]]、わずかに北部を[[ハンガリー]]が領有している。南は[[ドナウ川]]、西は[[ティサ川]]、北は[[ムレシュ川]]、東は南[[カルパチア山脈]]が境となる。歴史的に[[ティミショアラ]](ハンガリー語:テメシュヴァール、ドイツ語:テメシュブルク、セルビア語:ティミシュヴァル)を中心都市として発展した(現ルーマニア、[[ティミシュ県]])
 
'''バナト'''、'''バナート'''([[セルビア語]]:Банат / Banat)、'''バーナート'''ないし'''バーンシャーグ'''([[ハンガリー語]]:Bánát / Bánság)は、中央[[ヨーロッパ]]・[[東欧]]の地理的・歴史的な名称であり、[[パンノニア平原]]の一部を成す<ref>萩原直「バナト」[[柴宜弘]]・[[伊東孝之]]・[[南塚信吾]]・[[直野敦]]・[[萩原直]]監修『東欧を知る事典(新版)』[[平凡社]]、2015年、pp.399-400。ISBN 978-4-582-12648-8</ref><ref>木村真「〈31章〉国境を越える架け橋を目指して:バナト」柴宜弘編著『[[バルカン半島|バルカン]]を知るための66章:第2版』[[明石書店]]〈エリアスタディーズ〉、2016年、pp.172-176。ISBN 978-4-7503-4298-6</ref>。
現在は、東部を[[ルーマニア]]、西部を[[セルビア]]、わずかに北部を[[ハンガリー]]が領有している。南は[[ドナウ川]]、西は[[ティサ川]]、北は[[ムレシュ川]]、東は南[[カルパチア山脈]]が境となる。歴史的に[[ティミショアラ]](ハンガリー語:テメシュヴァール、ドイツ語:テメシュブルク、セルビア語:ティミシュヴァル)を中心都市として発展した(現ルーマニア、[[ティミシュ県]])。
 
== 概要 ==
「バナト」(Banat)という名詞が特に但し書きなしに用いられる場合、それは今日の[[ルーマニア]]、[[セルビア]]([[ヴォイヴォディナ]])、[[ハンガリー]]にまたがる「{{仮リンク|ティミショアラのバナト|en|Banat of Temeswar|ro|Banatul Timișoarei|sr|Тамишки Банат|de|Temescher Banat|hu|Temesi Bánság}}」('''テメシ・バーンシャーグ'''(ハンガリー語:Temesi{{lang-hu|Temesi Bánság)Bánság}})、'''テミシュヴァルスキ・バナト'''(セルビア語:Темишварски{{lang-sr|Темишварски Банат / Temišvarski banat)banat}})、'''バナトゥル・ティミショアレイ'''(ルーマニア語:Banatul{{lang-ro|Banatul Timişoarei)Timişoarei}})、または'''テミシュワーラー・バナート'''(ドイツ語:Temeschwarer{{lang-de|Temeschwarer Banat)Banat}})を指す。
 
由来として「バナト」(ルーマニア語および{{lang-de|Banat}}、{{lang-sr|Банат}})とは、[[バン (称号)|バン]](太守・総督)が治める辺境地方を意味する。バン(ban)は[[スラヴ語]]発祥の言葉で、卿、知事、副王といった意味である。このため、バナトを日本語に意訳すれば「県」となる。[[中世]][[ハンガリー王国]]には数カ所のバナトがあった。[[ダルマチア]]、[[スラヴォニア]]、[[ボスニア]]、クロアチアといったバナトであった。これらはヨーロッパでの対[[オスマン帝国]]戦争(トルコ戦争)の過程で消滅した。また、「バナト」は1920年代から1930年代の[[ユーゴスラビア王国]]の自治体であった「バノヴィナ」({{lang-hr|Banovine}}、{{lang-sr|Бановине}})の語源にもなっている。[[ゼタ州|ゼタ]]、[[ドリナ州|ドリナ]]、[[サヴァ州|サヴァ]]、[[モラヴァ州|モラヴァ]]などである
由来として「バナト」(ルーマニア語及び{{lang-de|Banat}}、{{lang-sr|Банат}})とは、[[バン (称号)|バン]](太守・総督)が治める辺境地方を意味する。
バン(ban)は[[スラヴ語]]発祥の言葉で、卿、知事、副王といった意味である。このため、バナトを日本語に意訳すれば「県」となる。[[中世]][[ハンガリー王国]]には数カ所のバナトがあった。[[ダルマチア]]、[[スラヴォニア]]、[[ボスニア]]、クロアチアといったバナトであった。これらはヨーロッパでの対[[オスマン帝国]]戦争(トルコ戦争)の過程で消滅した。
また、「バナト」は1920年代から1930年代の[[ユーゴスラビア王国]]の自治体であった「バノヴィナ」({{lang-hr|Banovine}}、{{lang-sr|Бановине}})の語源にもなっている。[[ゼタ州|ゼタ]]、[[ドリナ州|ドリナ]]、[[サヴァ州|サヴァ]]、[[モラヴァ州|モラヴァ]]などである。
 
「ティミショアラのバナト」地方はバンによって支配されたことはなかった。しかし1718年の[[パッサロヴィッツ条約]]以後、この呼称を獲得したのだった。バナトには[[セルビア人]]、[[ルーマニア人]]、[[ハンガリー人]]、[[ロマ人]]、[[バナト・シュヴァーベン人]]([[:en:Banat Swabians|en]])として知られる[[ドイツ人]]、[[クラショヴァニ人]]([[:en:Krashovani|en]])(14世紀にトルコによって移住させられた南スラヴ系の人々。民族的には[[クロアチア人]]とされる)、[[スロバキア人]]、[[バナト・ブルガリア人]]([[カトリック教会|カトリック]]教徒。[[オスマン帝国]]の迫害を逃れハプスブルク領バナトへ18世紀に移住してきた)、[[チェコ人]]など数多くの民族が小集団で暮らしている。バナトに住む者は'''バナト人'''と呼ばれる
バナトには[[セルビア人]]、[[ルーマニア人]]、[[ハンガリー人]]、[[ロマ人]]、[[バナト・シュヴァーベン人]]([[:en:Banat Swabians|en]])として知られる[[ドイツ人]]、[[クラショヴァニ人]]([[:en:Krashovani|en]])(14世紀にトルコによって移住させられた南スラヴ系の人々。民族的には[[クロアチア人]]とされる)、[[スロバキア人]]、[[バナト・ブルガリア人]]([[カトリック教会|カトリック]]教徒。[[オスマン帝国]]の迫害を逃れハプスブルク領バナトへ18世紀に移住してきた)、[[チェコ人]]など数多くの民族が小集団で暮らしている。バナトに住む者は'''バナト人'''と呼ばれる。
 
バナトの名は、この地域で話される言語で同じように表される。[[ルーマニア語]]ではバナト、[[セルビア語]]でバナト({{lang|-sr|Банат}})、[[ハンガリー語]]でバーナート(Bánát)またはバーンシャーグ(Bánság)、[[ドイツ語]]ではバナート、[[トルコ語]]でバナト、[[スロバキア語]]でバナート(Banát)、[[バナト・ブルガリア語]]でバナート(Banát)、標準[[ブルガリア語]]でバナト({{lang|-bg|Банат}})となる。
 
== 歴史 ==
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カルパチア盆地の東部は、数十年後には[[第一次ブルガリア帝国]]の一部となった。いまも、アヴァール人とゲピド族の住んでいた考古学的痕跡がここで見られ、9世紀の半ばまで存在が見られた。さらにゲピド族の生き残りはここで長きに渡り生きていたようである。アヴァール人支配はカルパチア盆地への相当な数の[[スラヴ人]]移住を意味した。895年、エテルキョスで暮らしていた[[マジャル族]]が、東ローマの同盟者として東ローマ=[[ブルガリア帝国]]戦争に参戦、ブルガリアを敗退させた。これによって、ブルガリアはマジャル族の定住地を襲っていた[[ペチェネグ|ペチェネグ族]]と同盟した。これがマジャル族のカルパチア盆地征服、ハンガリー建国で知られる過程を招いた。これはブルガリア帝国がドナウ川北部領を失う結果となった。バナトはこの時からマジャル族支配下となり、1552年に[[オスマン帝国]]が[[ティミショアラ|テメシュヴァール]]を行政中心地とするまで続いた。
 
=== ハンガリー支配(10世紀初頭-16世紀) ===
テメシュ川の地域はマジャル族長の土地でなく、そして10世紀半ばから-王国の統治が弱まり-地元豪族がさらに外国支配からの独立を追い求め始めた。その結果カルパチア盆地の東部において、[[正教会]]の布教が行われ東ローマの典礼が得られ始めた。これはハンガリー王国の創建と、最後の地元豪族[[アイトニ]]([[:en:Ajtony|Ajtony]])を従属させた[[イシュトヴァーン1世 (ハンガリー王)|イシュトヴァーン1世]]の祖国統一の努力を停止させることになった。14世紀、バナト地域は南部バナト国境が拡大する[[オスマン帝国]]に対する最重要の防御線となったため、他よりも最優先の地域となった。
 
=== オスマン帝国支配 (1552年-1716年) ===
バナトは1552年にオスマン帝国へ併合され、{{仮リンク|テメシュヴァル・エヤレト|tr|Temeşvar Eyaleti|en|Temeşvar Eyalet|label=テメシュヴァル州}}([[:en:Eyalet of Temeşvar|Eyalet of Temeşvar]])となった。継続するオスマン軍の襲撃と破壊のため、元々この地で暮らしていたハンガリー人の多くが北部へ逃亡するか殺された。替わりに、[[コンスタンティノープル]]の[[総主教]]が管轄する正教会信徒のセルビア人と[[アルーマニア人|ヴラフ人]]が移住してきた(正教会信徒はトルコに忠実ともみられていたため)。16世紀以降、バナト地域は主にラスキア人(セルビア人)と[[ヴラフ人]](ルーマニア人)が占めていた。一部の歴史文献によれば[[ラシュカ (歴史的地域)|ラスキア]](Rascia)、別の文献では[[ワラキア]]と称した。1594年、バナトのセルビア人がオスマン支配に対して大規模な反乱を起こした。ルーマニア人もこの反乱に関係した。
 
=== ハプスブルク支配 ===
[[Image:Elayet of temesvar.png|thumb|230px|left|[[:en:Eyalet of Temeşvar|テメシュヴァール州]]]]
17世紀、バナトの一部が[[ハプスブルク君主国]](オーストリア)の一部となった。[[1716年]]に[[墺土戦争 (1716年-1718年)|墺土戦争]]が勃発すると[[オイゲン・フォン・ザヴォイエン|プリンツ・オイゲン]]がバナトの残りをオスマン軍から奪い取った。[[1718年]]の[[パッサロヴィッツ条約]]後、'''テメシュヴァールのバナト'''の称号を得て、1751年まで軍事境界線下([[軍政国境地帯]])のハプスブルク君主国直轄領のままにおかれた(軍政国境地帯に住む人々は軍役と引き換えに土地保有の特権を得た、いわば屯田兵であった)。
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[[Image:Vojvodina10.png|thumb|250px|バナトの各郡。[[バチュカ]]と[[スレム]]。1881年以後はかつての[[セルビア・ヴォイヴォディナおよびタミシュ・バナト]]は5郡となる]]
[[Image:Banat republic.png|thumb|250px|バナト共和国、1918年]]
女帝マリア・テレジアもバナトに多大な関心を持っていた。彼女は多くのドイツ人小作農らを植民させ、国内の鉱業生産開拓を後押しし、メルシー伯によって導入された法令を発展させた。[[シュヴァーベン]]、[[アルザス地域圏|アルザス]]、[[バイエルン州|バイエルン]]、オーストリアからドイツ人移住者がやってきた。東部バナトの移住者の多くはほとんどドイツ人であった。バナトに住む民族的ドイツ人はドナウ・シュヴァーベン人として知られる。ドナウ・シュヴァーベン人のうちの一部には、[[フランス語]]を母語とする者または独語仏語の話者が混在して暮らす[[ロレーヌ地域圏|ロレーヌ]]地方出身の者がおり、数世代に渡ってフランス語そして特別な民族アイデンティティーを維持し続けた。後にバナト・フランス人フランセーズ・デュ・バナト(''Français(Français du Banat'')Banat)として反乱を起こした<ref>[http://www.memoria.ro/?location=view_article&id=1641&l=fr Smaranda Vultur, De l’Ouest à l’Est et de l’Est à l’Ouest : les avatars identitaires des Français du Banat, Texte presenté a la conférence d'histoire orale "Visibles mais pas nombreuses : les circulations migratoires roumaines", Paris, 2001] </ref>。ハンガリー人は長い植民時代の後、バナトに根を下ろすことを許されなかった。
 
1779年、バナト地域はハプスブルク領ハンガリー王国へ併合され、トロンタール、テメス、クラッソーの3つの県が創設された。1848年、バナト西部はハプスブルク君主国に含まれるセルビア人の自治地域、[[セルビア人のヴォイヴォディナ]](Serbian Vojvodina)の一部となった。1848年革命の間、バナトはセルビア人勢力とハンガリー王国軍とにそれぞれ占領された。
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バナトの領土は現在、ルーマニア([[ティミシュ県]]、[[カラシュ=セヴェリン県]]、[[アラド県]]、[[メヘディンチ県]])、セルビア([[ヴォイヴォディナ自治州]]と[[ベオグラード]])、ハンガリー([[チョングラード県]])とに分けられている。
 
== 地理 ==
=== ルーマニア領バナト ===
[[Image:Banat.svg|thumb|250px|ルーマニア領バナトの位置]]
1938年、ルーマニア領バナトを取り巻く、ティミシュ=トロンタル県、カラシュ県、セヴェリン県、アラド県、フネドアラ県が一つになってティヌトゥル・ティミシュ県となった。
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ルーマニア領バナトは南部と南東が山地で、北と西そして南西は平坦であり、一部湿地が見られる。湿地を除けば気候は概して健康的である。[[コムギ]]、[[オオムギ]]、[[エンバク]]、[[ライ麦]]、[[トウモロコシ]]、[[アマ (植物)|アマ]]、[[アサ]]、[[タバコ]]が大量に生産され、ブドウ園で作られるワインは高品質である。猟の獲物は豊富で、川は魚で溢れている。鉱物資源も豊かで、銅、スズ、鉛、亜鉛、鉄そして特に石炭が含まれている。数多くの鉱泉に囲まれて、最も重要なのはメハディアの鉱泉である。ローマ時代からテルマエ・ヘルクリス(ルーマニア語で[[:en:Băile Herculane]])で既に知られる硫黄質の水である。現在のルーマニア領バナトには、歴史的なパンノニア平原のバナトに含まれない山地の一帯が一部含まれている。
 
=== セルビアバナト ===
[[Image:Vojvodina03.png|thumb|250px|1848年当時の[[セルビア・ヴォイヴォディナ]]の境(西バナトを含む)]]
[[Image:Vojvodina map02.png|thumb|250px|[[ヴォイヴォディナ]]内のセルビア領バナト]]
セルビアバナト(西バナトとも)はセルビア人のヴォイヴォディナ(1848年-1849年)、そして[[セルビア人のヴォイヴォディナおよびテメシュヴァール・バナト]](1849年-1860年)の一部となった。1860年から後、セルビアバナトはハンガリー王国のトロンタールとテメシュの各県に分けられた。トロンタール県の中心には、現在の[[ズレニャニン]]、[[ヴェリキ・ベチュケレク]]があった。
 
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セルビア領バナトには、[[:en:Pančevački Rit|パンチェヴァチュキ・リト]]として知られ、基礎自治体ベオグラードに属する[[パリルラ]]も含まれる。
 
=== ハンガリー領バナト ===
ハンガリー領バナトは、バナト全体から見るとわずかな北部からなっており、[[チョングラード県]]に含まれる。大多数を占めるハンガリー人に加え、少数派のセルビア人が暮らす。
 
== 統計 ==
=== バナト全体 ===
'''==== 1660年–1666年:''' ====
 
'''1660年–1666年:'''
1660年–1666年、セルビア人は平坦なバナト西部で暮らしており、ルーマニア人は山がちな東部に暮らしていた<ref>Dr. Dušan J. Popović, Srbi u Vojvodini, knjiga 2, Novi Sad, 1990.</ref>。
 
'''==== 1743年–1753年:''' ====
 
1743年–1753年、バナトの民族構成は以下のようになっていた: <ref>Dr. Dušan J. Popović (see above)</ref>
* 東部3郡にはルーマニア人: [[:en:Lugoj|ルゴジ]], [[カランセベシュ]], [[:en:Orşova|オルショヴァ]]
* 西部3郡にはセルビア人: [[ズレニャニン|ヴェリキ・ベチュケレク]], [[パンチェヴォ]], [[:en:District of Velika Kikinda|ヴェリカ・キキンダ]].
* 中央部6郡にはセルビア人とルーマニア人が混ざり合って暮らしていた: [[ティミショアラ]], [[:en:Lipova, Arad|リポヴァ]], [[ヴルシャツ]], [[:en:Banatska Palanka|ノヴァ・パランカ]], [[:en:Ciacova|キアコヴァ]], [[:en:Cenad|ケナド]].
 
'''1774年:'''
 
'''==== 1774年:''' ====
1774年のデータによると、テメシュヴァールのバナトの人口は375,740人で、構成は以下のようであった: <ref>Miodrag Milin, Vekovima zajedno (iz istorije srpsko-rumunskih odnosa), Temišvar, 1995.</ref>
[[Image:Banat kroje1865.png|thumb|right|260px|民族衣装を着たバナトの人々、1860年代]]
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* 340 (0.09%) [[ユダヤ人]]
 
'''==== 1900年:''' ====
 
1900年、バナトの人口は1,431,329人であった: <ref>[http://www.banatul.com/ Banatul.com - History and Information about Banat, Serbia and Banat, Romania<!-- Bot generated title -->]</ref>
* 578,789人 (40.4%) [[ルーマニア人]]
* 362,487人 (25.3%) [[ドイツ人]]
* 251,938人 (17.6%) [[セルビア人]]
* 170,124人 (11.9%) [[ハンガリー人]]
 
'''1910年:'''
 
'''==== 1910年:''' ====
1910年の調査によると、バナト地域(トロンタール、テメシュ、クラッソー=ショレーニ)の人口は1,582,133人であった<ref>[http://www.talmamedia.com/php/district/district.php?county=Toront%E1l Torontál County<!-- Bot generated title -->]</ref> <ref>[http://www.talmamedia.com/php/district/district.php?county=Temes Temes County<!-- Bot generated title -->]</ref> <ref>[http://www.talmamedia.com/php/district/district.php?county=Krass%F3-Sz%F6r%E9ny Krassó-Szörény County<!-- Bot generated title -->]</ref> (*)
* 592,049人 (37.42%) [[ルーマニア人]]
156 ⟶ 147行目:
|}
 
=== ルーマニア領バナト ===
ルーマニア領バナトでの歴史的な人口推移(ティミシュ県<ref>[http://varga.adatbank.transindex.ro/?pg=3&action=etnik&megye=10 Ethnic composition of the Timiş County (1850-1992)]</ref>, <ref>Recensământ 2002, [http://recensamant.referinte.transindex.ro/?pg=9&id=10 Census 2002: Timiş County]</ref> と[[カラシュ=セヴェリン県]] <ref>[http://varga.adatbank.transindex.ro/?pg=3&action=etnik&megye=9 Ethnic composition of the Caraş-Severin County (1850-1992)]</ref><ref>Recensământ 2002, [http://recensamant.referinte.transindex.ro/?pg=9&id=9 Census 2002: Caraş-Severin County] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070626040157/http://recensamant.referinte.transindex.ro/?pg=9&id=9 |date=2007年6月26日 }}</ref>)は、以下のようになる:
 
{| class="wikitable" border=1 cellspacing=0 cellpadding=2 style="border-collapse:collapse;"
188 ⟶ 179行目:
|}
 
=== セルビア領バナト ===
{| class="wikitable" border=1 cellspacing=0 cellpadding=2 style="border-collapse:collapse;"
!年||合計||[[セルビア人]]||[[:en:Hungarians in Vojvodina|ハンガリー人]]||[[:en:Banat Swabians|バナト・シュヴァーベン人]]||[[:en:Romanians of Serbia|ルーマニア人]]||[[:en:Slovaks in Vojvodina|スロバキア人]]
218 ⟶ 209行目:
 
== バナトの主要都市 ==
カッコ括弧内は人口を示す。
* '''{{ROM}}''':
** [[ティミショアラ]] (317,651人)
** [[レシツァ]] (83,985人)
** [[ルゴジ]] (44,571人)
** [[:カランセベシュ]] (28,294人)
* '''{{SRB}}''':
** [[ズレニャニン]] (79,545人)
** [[パンチェヴォ]] (76,110人)
** [[キキンダ]] (41,825人)
** [[ヴルシャツ]] (36,001人)
 
== ギャラリー ==
242 ⟶ 233行目:
</gallery></center>
 
== 脚注 ==
{{reflist}}
 
== 参考文献 ==
* Miodrag Milin, ''Vekovima zajedno (Iz istorije srpsko-rumunskih odnosa)'', Temišvar, 1995.
* Milan Tutorov, ''Mala Raška a u Banatu, istorika Zrenjanina i Banata'', Zrenjanin, 1991.
255 ⟶ 246行目:
* Josef Wolf, ''Entwicklung der ethnischen Struktur des Banats 1890–1992 (Atlas Ost- und Südosteuropa / Hrsg.: Österreichisches Ost- und Südosteuropa-Institut; 2: Bevölkerung; 8 = H/R/YU 1, Ungarn/Rumänien/Jugoslawien)'', Berlin – Stuttgart 2004.
 
== 外部リンク ==
{{commonscat|Banat}}
* [http://www.banatul.com banatul.com] {{en icon}}/{{ro icon}}