削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
39行目:
 
=== 高橋喜三郎の話 ===
[[高橋喜三郎]](講道館柔道九段)は16歳の頃に今泉八郎の演武館で稽古をしていた{{Refnest|group="注釈"|高橋喜三郎は明治21年生まれであり真蔭流を稽古していたのは明治37年頃と思われる。幼少から戸塚派楊心流の深井子之吉や上野光斎について修行していた。講道館には明治44年に入門している。明治39年、英国艦隊歓迎の際に日比谷公園で行われた東京市内の柔術道場から選出された者が出場した各道場の命運を掛けた他流試合に出場し決勝戦で[[神道六合流]]の[[野口清]]を破と戦って優勝している。他の資料では6人目で野口潜龍軒と当たって引き分けたとしている。}}。
 
高橋によると今泉八郎は強くて巧かったため大変人気があり門人が5000人いたとされる。旧土佐藩主の山内豊景、松本栄作、渥美為亮、鷲尾春雄、田中泰雄などが免許を授けられた。
46行目:
 
熊ケ谷は六尺(約180cm)三十数貫(約130kg)もあり、名だたる柔術家達が入れかわり立ちかわり掛ってもコロコロ投げてしまうのでこのままでは柔術家は全て腰抜けになってしまうと評判になった。松本栄作は五尺三寸(160cm)十六貫(60kg)の小兵であったが熊ヶ谷に挑戦した。いったいどうなることかと見ていると、松本は熊ケ谷を全く働かさず見事な足払いで立て続けに二本とって意気揚々と帰っていったという。興行には八百長があったかも知れないが飛び入り試合には許されず、真剣勝負で小兵が大兵を投げ飛ばした痛快事に市民は溜飲を下げたと記している。また高橋は六十年以上前に見た松本栄作の足払いに勝るものはまだいっぺんも見たことがないと述懐している<ref name="工藤雷介">工藤雷介 著『[https://dl.ndl.go.jp/pid/12146713/1/9 改訂普及版 秘録日本柔道]』東京スポーツ新聞社、1975</ref>。
 
=== 宝井馬琴の話 ===
[[宝井馬琴]]の渋川伴五郎の講演の中で今泉八郎について少し触れられている<ref name="宝井馬琴">宝井馬琴 講演『[https://dl.ndl.go.jp/pid/919476/1/73 八千代文庫第三十三編 寛永勇士武術の誉]』大川屋書店、1917年</ref>。
四代目の宝井馬琴は幼少から楊心流を学んでおり柔術の心得があった。
 
[[中津藩|旧中津藩]]の今泉八郎は二代目磯又右衛門(磯又一郎)の門弟であり天神真楊流を見破って真蔭流を開いた。当時、今泉八郎自身は隠居して養子の今泉栄作が跡を継いでいた。柔術の活法には背活、襟活、睾活、相活といって四活があったが、真蔭流には今泉八郎が工夫した水活と死相活の二活を加えて六活あったという。
 
=== 演武館大運動会 ===
演武館では大運動会と称する[[運動会]]を定期的に開催していた。稽古着に袴を履き赤白の鉢巻を締め二隊に別れて勝敗を決するというものであった。