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「U511」には[[野村直邦]]中将やドイツの駐中国大使となるエルンスト・ヴォールマン、ドイツの技師3名らが便乗した<ref name=内田21/>。
 
「U511」はドイツ側では「マルコ・ポールI」、日本側では「U511」は「さつき」と呼称された<ref name=内田26>内田弘樹『日の丸を掲げたUボート』21、26ページ</ref>。
 
1943年5月8日、「U511」は[[ロリアン]]から出航<ref name=内田24>内田弘樹『日の丸を掲げたUボート』24ページ</ref>。5月22日に[[フリータウン]]沖で「U460」より補給を受け、6月10日に喜望峰を回ってインド洋に入った<ref name=内田25>内田弘樹『日の丸を掲げたUボート』25ページ</ref>。インド洋にて米商船2隻を撃沈した<ref>{{Cite web
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7月29日、南シナ海で[[ヒ03船団]]と遭遇し、敵と誤認されて攻撃された<ref>内田弘樹『日の丸を掲げたUボート』31-32ページ</ref>。
 
8月7日、「U511」は呉に到着した<ref name=内田33>内田弘樹『日の丸を掲げたUボート』33ページ</ref>。その後日本側の人員が乗り込み、訓練が開始された<ref内田弘樹『日の丸を掲げたUボート』36-37ページ></ref>。
 
撃沈総数は5隻、計41,373トンにのぼる。また、商船1隻、8,773トンに損傷を与えた。
===日本海軍にて===
1943年[[9月16日]]に日本海軍の艦籍に入り、「'''呂号第五百潜水艦'''」(以下「呂500」)と命名された<ref name="uboatnet"/><ref name="19430916tatsu225-2" />。本籍を[[呉鎮守府]]とし呉鎮守府警備潜水艦に定められた<ref>{{アジア歴史資料センター|C12070180700|昭和18年9月16日付 内令第1953号}}</ref>。
 
「U511」の乗員はドイツへ向かう封鎖突破船「オゾルノ」に乗ってシンガポールへ向かい、イタリア降伏に伴ってドイツ潜水艦となっていた元イタリア潜水艦などに配属された<ref>内田弘樹『日の丸を掲げたUボート』42-44ページ</ref>。
無事に日本に届いたものの、日本では必要な高精度の部品が用意できず、前述の回航目的は達成できずに終わった<ref>消えた潜水艦イ52、122ページ</ref>。
 
「U511」は日本が量産しようとした中型潜水艦である[[戊型潜水艦]]の参考になったといわれるが、この計画は結局破棄されている<ref>内田弘樹『日の丸を掲げたUボート』45-46ページ</ref>。日本側が「U511」から得たものには溶接技術や音響対策のための防振間座(これの多くは防振ゴムであったらしい)がある<ref>内田弘樹『日の丸を掲げたUボート』46-47ページ</ref>。「U511」でもたらされた溶接技術は[[伊二百一型潜水艦]]や[[波二百一型潜水艦]]の建造で活用され、防振ゴムは海防艦のディーゼル発電機などに装着された<ref>内田弘樹『日の丸を掲げたUボート』47-48ページ</ref>。
===終戦後の出撃===
日本では、実戦には投入されず、対潜訓練隊(後の[[第五十一戦隊]])で訓練目標として使用された。[[ソ連対日参戦]]に伴い[[樺太]]方面へ出撃することとなり、[[舞鶴港|舞鶴]]で待機中に終戦を迎えたが、決起した乗組員達により終戦後の8月18日に[[ウラジオストク]]へ向け単身出撃した。
 
「呂500」は1944年5月に訓練用の潜水艦部隊である第三十三潜水隊に移り、7月1日には呉防備戦隊に編入されて8月1日に同戦隊内の特設対戦訓練隊に編入された<ref name=内田49>内田弘樹『日の丸を掲げたUボート』49ページ</ref>。特設対戦訓練隊は佐伯港を拠点とし対潜艦艇の訓練などを行う部隊で、「呂500」は訓練の支援に従事した<ref>内田弘樹『日の丸を掲げたUボート』49-50ページ</ref>。時期は不明だが「呂500」は誤操作による座礁事故を起こし、また1945年3月から4月には訓練中に海防艦の艦底に衝突する事故を起こした<ref name=内田51>内田弘樹『日の丸を掲げたUボート』51ページ</ref>。
当時の乗組員の証言によれば、死を覚悟してのことか艦橋にはドクロマークが描かれ、'''「真っ白な作業服に着替えて甲板に整列し、岸壁を埋め尽くした見送りの人々に向かって敬礼した」'''、'''「出撃して一晩経った後、本国から繰り返し下されていた帰港命令に応じることになった。乗組員たちは泣きながら帰って来た」'''とのことである。<ref>{{Cite news | title = 旧日本軍潜水艦「呂500」を若狭湾で発見 元乗組員が明かした「終戦後の出撃」秘話 | newspaper = [[産経新聞]] | date = 2018-07-16 | url = https://www.sankei.com/article/20180716-BPMXPFMXGBNTDF7KBPA24U5U54/ | accessdate = 2024-02-19}}</ref>
 
1945年4月、特設対潜訓練隊は[[七尾湾]]に移った<ref name=内田52>内田弘樹『日の丸を掲げたUボート』52ページ</ref>。5月、特別対潜訓練隊は第五十一戦隊に改編され、舞鶴鎮守府部隊所属となる<ref name=内田52/>。
撃沈総数は5隻、計41,373トンにのぼる。また、商船1隻、8,773トンに損傷を与えた。
 
===終戦後の出撃===
[[ソ連対日参戦|8月9日にソ連が参戦]]。「呂500」は七尾から舞鶴へ移動し、12日に到着して出撃準備をしていたが8月15日に終戦となる<ref>内田弘樹『日の丸を掲げたUボート』58-59ページ</ref>。しかし、舞鶴の潜水艦部隊は出撃準備を続行し、8月18日日に「呂500」などは出撃した<ref name=内田59a>内田弘樹『日の丸を掲げたUボート』59-60ページ</ref>。すくなくとも「呂500」と「[[伊号第二百一潜水艦|伊201]]」、「[[伊号第二百二潜水艦|伊202]]」の3隻が出撃を企てたようである<ref name=内田59a/>。「呂500」は艦橋にどくろマークを描いて出撃した<ref name=内田61>内田弘樹『日の丸を掲げたUボート』61ページ</ref>。これは死ぬまでで日本に戻らないという意味であったという<ref name=内田61/>。出撃は大勢の人と軍楽隊の演奏に見送られてのものであった<ref>内田弘樹『日の丸を掲げたUボート』60-61ページ</ref>。このようにして出撃したが、それを知った第六艦隊司令部からの出撃停止命令を受け、各艦は帰投した<ref name=内田61/>。これについて処罰等はなかったようである<ref name=内田62>内田弘樹『日の丸を掲げたUボート』62ページ</ref>。
 
10月14日、アメリカ海軍が接収<ref name=内田62/>。11月30日除籍。
[[1945年]]11月30日に除籍され、[[1946年]][[4月30日]]に[[米軍]]によって[[若狭湾]]で海没処分された<ref name="uboatnet"/>。
 
1946年4月30日、「[[伊号第百二十一潜水艦|伊121]]」、「[[呂号第六十八潜水艦|呂68]]」とともに[[冠島]]沖に沈められた<ref name=内田62/>。
===発見===
[[2018年]]6月18日~21日に行われた[[浦環]]らによる若狭湾の調査で、[[冠島]](京都府[[舞鶴市]])付近で水深約90メートルの海底に眠る船体が確認された<ref>{{Cite news | title = 呂500など潜水艦3隻特定 若狭湾舞鶴市沖調査で九工大発表 | newspaper = [[福井新聞]] | date = 2018-07-03 | url = https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/614165 | accessdate = 2019-07-07}}</ref>。近くには同じく海没処分された[[呂号第六十八潜水艦]]、[[伊号第百二十一潜水艦]]も見つかっている<ref>{{Cite news | title = 潜水艦の呂500近くに伊121も 若狭湾での探索最終日に映像確認 | newspaper = [[福井新聞]] | date = 2018-06-22 | url = https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/606492 | accessdate = 2019-07-07}}</ref><ref>[https://www.sankei.com/photo/story/news/180703/sty1807030013-n1.html 「若狭湾の潜水艦3隻 位置と名前全て特定 九工大調査チーム」]『[[産経新聞]]』朝刊2018年7月4日(社会面)2018年7月11日閲覧。</ref>。