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村山団地の建設当時はまだ東京都[[北多摩郡]][[武蔵村山市|村山町]]であったが、団地の入居開始に伴い[[人口]]が急増。団地の居住者は当初の約1万3,000人から、[[1972年]](昭和47年)には約2万3,000人に増えた<ref name="中小企業庁">[https://www.chusho.meti.go.jp/keiei/sapoin/monozukuri300sha/2017/8murayamadanchi.pdf 村山団地中央商店街(村山団地中央商店会)東京都武蔵村山市 - 自転車送迎サービスを開始、地域住民の安心安全な生活にも寄与。] 経営サポート「ものづくり(サービス含む)中小企業支援」、[[中小企業庁]]、2017年、2023年10月15日閲覧。</ref>。村山団地での人口急増が町の人口を押し上げ、{{要出典範囲|date=2023-10|入居開始前の[[1965年]]には14,029人であった村山町の人口は、[[1970年]]には41,275人まで増えた。}}[[1970年]][[11月3日]]に[[市制]]施行し武蔵村山市が発足、これにより北多摩郡は消滅した<ref name="アーバンライフメトロ" />。
 
== 歴史地理・人口 ==
武蔵村山市は[[武蔵野台地]]上の比較的平坦な地形であり、村山団地の北方には[[多摩湖]]と周辺の緑地やや[[西武ドーム]]が位置することが空撮写真からわかる<ref>[https://tokyo-np.hanbai.jp/products/detail.php?product_id=357 フォトサービス 2016年6月5日 都営村山団地 人情味残して進化] [[東京新聞]]オフィシャルショップ、2023年10月15日閲覧。</ref>[[多摩丘陵]]を切り拓いて開発した急[[坂]]の多い[[多摩ニュータウン]]とは異なり、地形が平坦なことが後述する[[#商店街の高齢者送迎事業|商店街の送迎自転車サービス]]には好適であった
=== 村山団地と日産自動車村山工場 ===
単一の都営団地で5,000戸超という規模は都内でもまれで、村山団地に次ぐ規模では[[北区 (東京都)|北区]]の[[桐ケ丘 (東京都北区)#都営桐ケ丘団地|都営桐ケ丘団地]](敷地面積45.9ha<ref name="osawa">{{Cite web|url=http://www.kita-jimin.jp/activity/pdf/reportH2808_osawa_a.pdf|title=大沢たかし区議会報告 都営桐ケ丘団地(第6期)建替え計画|accessdate=2021-01-31|publisher=北区議会自由民主党議員団|date=2016年8月}}</ref>、建替前の総戸数5,020戸<ref name="osawa" />・146棟)があるが、桐ケ丘団地が20年以上かけて建設されているのに対し、村山団地はわずか2年で完成している<ref name="武蔵村山市" />。
 
村山団地が所在する緑が丘と、隣接する[[学園 (武蔵村山市)|学園]]([[日産自動車村山工場]]があった)と[[大南 (武蔵村山市)|大南]]の3地区で、市内[[人口]]の約4割を占める<ref name="アーバンライフメトロ" />([[2020年]]9月時点で約2万7,000人<ref name="アーバンライフメトロ" />)。
村山団地は、[[高度経済成長]]期の東京都内への[[労働力]]人口流入を受け、住宅と[[公共施設]]を併せて計画的に配置し、良好な住環境の住宅を供給することを目的として東京都により建設された<ref name="武蔵村山市" />。なお当時の[[公営住宅]]は、現在のような低所得者層への[[社会福祉]]的な位置づけではなく、家賃支払能力を有する勤労者層向けに[[賃貸住宅]]の大量供給を目的としていた<ref name=":12">{{Cite journal|和書 |author=松本暢子 |title=大規模都営住宅団地における居住者の世帯構成の変化に関する考察 |journal=社会情報学研究 |issn=1341-7843 |publisher=[[大妻女子大学]] |year=2010 |volume=19 |pages=65-75 |naid=110008426686 |url=http://id.nii.ac.jp/1114/00005204/}}</ref>([[公営住宅#歴史]]も参照)。
{{See also|緑が丘 (武蔵村山市)}}
 
武蔵村山市内には[[鉄道駅]]がないが、市内からの主なアクセス駅である[[立川駅]]・[[玉川上水駅]]への[[路線バス]]もほぼこのエリアを経由する<ref name="アーバンライフメトロ" />。[[多摩都市モノレール線|多摩都市モノレール]][[上北台駅]]から10分ほど歩くと団地が見えてくる<ref name="都振連"/>。
[[立川飛行機]]出身の技術者らが設立した[[プリンス自動車工業]]は、[[1959年]]頃から工場用地取得を検討し<ref name="論座20191016" />、当時の村山町と[[砂川町]](現:[[立川市]])にまたがる<ref name="city">{{cite web|url=http://www.city.musashimurayama.lg.jp/shisei/shisaku/machizukuri/1002052/index.html|title=日産村山工場跡地 |publisher=[[武蔵村山市]] |date=2010-04-16 |accessdate=2013-11-07 }}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.city.tachikawa.lg.jp/toshikeikaku/shise/toshizukuri/toshi/chiku/murayamakojoato.html |title=村山工場跡地地区地区計画 |publisher=[[立川市]] |accessdate=2020-12-21}}</ref>広大な敷地を入手した<ref name="論座20191016" />。工場建設前の敷地には[[住宅|人家]]はわずか[[牧畜]][[農家]]1軒しかなかった<ref name="論座20191016" />。[[1962年]]にプリンス自動車工業村山工場として操業開始<ref name="論座20191016" />、ほどなく1966年[[8月1日]]付で同社は[[日産自動車]]に合併され、[[日産自動車村山工場]]となった<ref name="論座20191016" />。
: 人口については「[[緑が丘 (武蔵村山市)#世帯数と人口]]」、「[[武蔵村山市#人口]]」も参照
 
村山団地の区域(緑が丘の町域)を取り囲むように[[道路]]が敷設され、東西の道路はそれぞれ「団地東通り」「団地西通り」、南側の道路は「湖南通り」と名付けられている。また団地の南方に「大南通り」が東西に伸びる。団地周縁の道路はバス通りとなっており、市内の人口集積地であるため、バス通り沿いを中心に店舗が集まり[[商店街]]を形成する。商業施設は団地内の「村山団地中央商店街」<ref name="中小企業庁" /><ref name="都振連"/>があるほか、それらの団地周辺の店舗が利用できる。特に団地西通りには歩道片側に[[日本のアーケード商店街|アーケード]]を備えた商店街「村山すずらん通り」、団地西通りの1本西側に並行して「村山アメ横通り商店街」がある。また大南通りは団地からやや離れるが、[[飲食店]]などの商店が立ち並んでいる。
村山団地は、この村山工場の[[労働者]]らを受け入れるべく建設が進められたマンモス都営団地であり、村山団地の歴史はそのまま日産自動車村山工場の歴史でもあった<ref name="論座20191016" />。
 
日産自動車村山工場閉鎖の影響や[[少子高齢化]]、[[都心回帰]]傾向も相まって人口は減少し、[[2017年]](平成29年)1月時点での居住者数は7,445人、うち1,260人が独居世帯となっている<ref name="中小企業庁" />。また[[1960年代]]に入居開始した村山団地でも、[[高度経済成長]]期に開発された大規模団地の例に漏れず[[高齢化]]が進み、[[2017年]](平成29年)1月時点での高齢化率は約50%、75歳以上の[[後期高齢者]]率は約29%を占める<ref name="中小企業庁" />。
団地入居開始と同時に「村山団地中央商店街」が開業し、出店した商店により「村山団地中央商店会」が発足した<ref name="都振連">[https://akitenpo.tokyo/mall/242/ 商店街紹介! Vol.15 武蔵村山市 村山団地中央商店会] TOKYO商店街空き店舗ナビ、東京都商店街振興組合連合会(都振連)、2023年10月15日閲覧。</ref>。また、入居開始翌年の[[1967年]](昭和42年)10月には、村山団地連合[[町内会|自治会]]が発足している<ref>{{Cite web|title=レファレンス一覧|村山の自治会の沿革がわかる資料が見たい。|url=https://www.library.musashimurayama.tokyo.jp/contents/referen.html|website=武蔵村山市立図書館|accessdate=2021-02-01|publisher=武蔵村山市|date=2008年08月29日}}</ref>。
 
== 歴史 ==
[[1999年]]10月、[[カルロス・ゴーン]]による[[日産リバイバルプラン]]発表により村山工場の閉鎖が決定<ref name="city" />。[[2001年]]3月に日産村山工場は閉鎖された<ref name="city" />。{{See also|日産自動車村山工場}}
=== 村山団地と日産自動車村山工場 ===
単一の都営団地で5,000戸超という規模は都内でもまれで、村山団地に次ぐ規模では[[北区 (東京都)|北区]]の[[桐ケ丘 (東京都北区)#都営桐ケ丘団地|都営桐ケ丘団地]](敷地面積45.9ha<ref name="osawa">{{Cite web|url=http://www.kita-jimin.jp/activity/pdf/reportH2808_osawa_a.pdf|title=大沢たかし区議会報告 都営桐ケ丘団地(第6期)建替え計画|accessdate=2021-01-31|publisher=北区議会自由民主党議員団|date=2016年8月}}</ref>、建替前の総戸数5,020戸<ref name="osawa" />・146棟)があるが、桐ケ丘団地が20年以上かけて建設されているのに対し、村山団地はわずか2年で完成している<ref name="武蔵村山市" />。
 
村山団地は、[[高度経済成長]]期の東京都内への[[労働力]]人口流入を受け、住宅と[[公共施設]]を併せて計画的に配置し、良好な住環境の住宅を供給することを目的として東京都により建設された<ref name="武蔵村山市" />。なお当時の[[公営住宅]]は、現在のような低所得者層への[[社会福祉]]的な位置づけではなく、家賃支払能力を有する勤労者層向けに[[賃貸住宅]]の大量供給を目的としていた<ref name=":12">{{Cite journal|和書 |author=松本暢子 |title=大規模都営住宅団地における居住者の世帯構成の変化に関する考察 |journal=社会情報学研究 |issn=1341-7843 |publisher=[[大妻女子大学]] |year=2010 |volume=19 |pages=65-75 |naid=110008426686 |url=http://id.nii.ac.jp/1114/00005204/}}</ref>([[公営住宅#歴史]]も参照)。
=== 地理・人口 ===
武蔵村山市は[[武蔵野台地]]上の比較的平坦な地形であり、村山団地の北方には[[多摩湖]]と周辺の緑地やや[[西武ドーム]]が位置することが空撮写真からわかる<ref>[https://tokyo-np.hanbai.jp/products/detail.php?product_id=357 フォトサービス 2016年6月5日 都営村山団地 人情味残して進化] [[東京新聞]]オフィシャルショップ、2023年10月15日閲覧。</ref>([[多摩丘陵]]を切り拓いて開発した[[多摩ニュータウン]]とは異なり、地形が平坦なことが後述する商店街の送迎自転車サービスには好適であった)。
 
[[立川飛行機]]出身の技術者らが設立した[[プリンス自動車工業]]は、[[1959年]]頃から工場用地取得を検討し<ref name="論座20191016" />、当時の村山町と[[砂川町]](現:[[立川市]])にまたがる<ref name="city">{{cite web|url=http://www.city.musashimurayama.lg.jp/shisei/shisaku/machizukuri/1002052/index.html|title=日産村山工場跡地 |publisher=[[武蔵村山市]] |date=2010-04-16 |accessdate=2013-11-07 }}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.city.tachikawa.lg.jp/toshikeikaku/shise/toshizukuri/toshi/chiku/murayamakojoato.html |title=村山工場跡地地区地区計画 |publisher=[[立川市]] |accessdate=2020-12-21}}</ref>広大な敷地を入手した<ref name="論座20191016" />。工場建設前の敷地には[[住宅|人家]]はわずか[[牧畜]][[農家]]1軒しかなかった<ref name="論座20191016" />。[[1962年]]に'''プリンス自動車工業村山工場'''として操業開始<ref name="論座20191016" />、ほどなく1966年[[8月1日]]付で同社は[[日産自動車]]に合併され、[[日産自動車村山工場]]となった<ref name="論座20191016" />。
村山団地が所在する緑が丘と、隣接する[[学園 (武蔵村山市)|学園]](日産自動車村山工場があった)と[[大南 (武蔵村山市)|大南]]の3地区で、市内人口の約4割を占める<ref name="アーバンライフメトロ" />([[2020年]]9月時点で約2万7,000人<ref name="アーバンライフメトロ" />)。
 
村山団地は、この村山工場の[[労働者]]らを受け入れるべく建設が進められたマンモス都営団地であり、村山団地の歴史はそのまま日産自動車村山工場の歴史でもあった<ref name="論座20191016" />。
武蔵村山市内には[[鉄道駅]]がないが、市内からの主なアクセス駅である[[立川駅]]・[[玉川上水駅]]への[[路線バス]]もほぼこのエリアを経由する<ref name="アーバンライフメトロ" />。[[多摩都市モノレール線|多摩都市モノレール]][[上北台駅]]から10分ほど歩くと団地が見えてくる<ref name="都振連"/>。
{{See also|日産自動車村山工場}}
: 人口については「[[緑が丘 (武蔵村山市)#世帯数と人口]]」、「[[武蔵村山市#人口]]」も参照
 
村山団地の区域(緑が丘の町域)を取り囲むように[[道路]]が敷設され、東西の道路はそれぞれ「団地東通り」「団地西通り」、南側の道路は「湖南通り」と名付けられている。また団地の南方に「大南通り」が東西に伸びる。団地周縁の道路はバス通りとなっており、市内の人口集積地であるため、バス通り沿いを中心に店舗が集まり[[商店街]]を形成する。商業施設は団地内の「村山団地中央商店街」<ref name="中小企業庁" /><ref name="都振連"/>があるほか、それらの団地周辺の店舗が利用できる。特に団地西通りには歩道片側に[[日本のアーケード商店街|アーケード]]を備えた商店街「村山すずらん通り」、団地西通りの1本西側に並行して「村山アメ横通り商店街」がある。また大南通りは団地からやや離れるが、[[飲食店]]などの商店が立ち並んでいる。
 
団地入居開始と同時に、団地内に「村山団地中央商店街」が開業し、出店した商店により「村山団地中央商店会」が発足した<ref name="都振連">[https://akitenpo.tokyo/mall/242/ 商店街紹介! Vol.15 武蔵村山市 村山団地中央商店会] TOKYO商店街空き店舗ナビ、東京都商店街振興組合連合会(都振連)、2023年10月15日閲覧。</ref>。また、入居開始翌年の[[1967年]](昭和42年)10月には、村山団地連合[[町内会|自治会]]が発足している<ref>{{Cite web|title=レファレンス一覧|村山の自治会の沿革がわかる資料が見たい。|url=https://www.library.musashimurayama.tokyo.jp/contents/referen.html|website=武蔵村山市立図書館|accessdate=2021-02-01|publisher=武蔵村山市|date=2008年08月29日}}</ref>。
日産村山工場閉鎖の影響や[[少子高齢化]]、都心回帰傾向も相まって人口は減少し、[[2017年]](平成29年)1月時点での居住者数は7,445人、うち1,260人が独居世帯となっている<ref name="中小企業庁" />。また[[1960年代]]に入居開始した村山団地でも、高度経済成長期に開発された大規模団地の例に漏れず[[高齢化]]が進み、[[2017年]](平成29年)1月時点での高齢化率は約50%、75歳以上の後期高齢者率は約29%を占める<ref name="中小企業庁" />。
 
[[1999年]]10月、[[カルロス・ゴーン]]による[[日産リバイバルプラン]]発表により村山工場の閉鎖が決定<ref name="city" />。[[2001年]]3月に日産村山工場は閉鎖された<ref name="city" />。{{See also|日産自動車村山工場}}
=== 交通アクセス ===
多摩都市モノレール桜街道駅
 
=== 建替工事の開始と進捗 ===
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中期計画建替事業は[[2012年]](平成24年)の第4期-3工事まで順次継続された<ref name="武蔵村山市" />。2012年に東京都から後期計画建替事業案の概要が示されたことを受け、武蔵村山市では[[まちづくり]]のルールをよりきめ細かく定められる[[地区計画]]制度を導入することとし<ref name="武蔵村山市" />、[[2014年]](平成26年)10月17日付で新たに「都市計画緑が丘地区[[地区計画]]」を決定、「都市計画村山一団地の住宅施設」を廃止<ref name="武蔵村山市" />。翌[[2015年]](平成27年)1月に「都営村山団地後期計画事業に関する基本協定」を締結<ref name="武蔵村山市" />、[[2016年]](平成28年)より後期計画事業の第1期工事を着工した<ref name="武蔵村山市" />。建て替え工事は[[2030年]]度まで継続される予定である<ref name="東京都環境局"/><ref name="産経フォト">{{Cite web|title=【路上感撮】黄昏時のマンモス団地|url=https://www.sankei.com/photo/story/news/170513/sty1705130001-n1.html|website=産経フォト|accessdate=2021-02-01|language=ja|publisher=[[産業経済新聞社]]|date=2017-05-13}}</ref>。
 
なお、入居開始当時の村山団地には[[駐車場]]がなかったが([[1960年代]]当時はまだ[[モータリゼーション]]の進展前であった)、建て替えによる高層化で余剰の土地が生じたことから、建て替えと同時に駐車場も建設されている<ref>[https://dailyportalz.jp/b/cs/mitekite/detail/080107051087/1.htm ちょっと見てきて - [東京都]村山団地内にあった「たこ公園」] [[デイリーポータルZ]]、2008年1月7日、2023年10月15日閲覧。</ref>。
 
=== 商店街の高齢者送迎事業 ===
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=== 予研P4施設反対運動 ===
村山団地と「団地西通り」を隔てた学園4丁目に[[国立感染症研究所]]村山庁舎が立地する<ref>[https://www.niid.go.jp/niid/ja/accessmap/143-access-murayama.html 村山庁舎 アクセスマップ] [国立感染症研究所]]、2023年10月15日閲覧。</ref>。これは[[1961年]](昭和36年)に[[国立感染症研究所|国立予防衛生研究所]](予研、現:国立感染症研究所)が[[国立病院機構村山医療センター|国立村山療養所]](現:[[国立病院機構村山医療センター]])の敷地内に[[ワクチン]]検定庁舎(村山分室)を新築したものである<ref name="予研概要">[https://www.niid.go.jp/niid/ja/aboutniid.html 国立感染症研究所 概要] 国立感染症研究所、2023年10月15日閲覧。</ref><ref name="予研40年">{{Cite book|和書|title=予研40年のあゆみ|publisher=国立予防衛生研究所|year=1988|ncid=BN03570372}}</ref>。予研村山分室は、[[1963年]](昭和38年)にウイルス中央検査部、[[1965年]](昭和40年)に麻疹ウイルス部を新設して機能が拡大され、[[1981年]](昭和56年)には高度安全実験室が完成したが、これは世界で5番目となるP4施設(=[[バイオセーフティレベル#レベル4|バイオセーフティレベル4]])であった<ref name="予研概要"/>。
{{See also|国立感染症研究所#村山庁舎|バイオセーフティーレベル#レベル4}}
 
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** 第一老人福祉館
* [[東大和警察署]]村山[[交番]]
* [[武蔵村山市立小中一貫校 村山学園]]
* 東京多摩[[幼稚園]]
* れんげ武蔵[[保育園]]
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=== 周辺 ===
* 武蔵村山市立小中一貫校大南学園
** [[武蔵村山市立小中一貫校大南学園第四中学校]]
** [[武蔵村山市立小中一貫校大南学園第七小学校]]
* [[国立感染症研究所|国立感染症研究所村山庁舎]]
* [[国立病院機構村山医療センター]]