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{{出典の明記|date=2017-11-16}}
{{Infobox 人物
|氏名= 下山 定則<br />(しもやま さだのり)
|画像= Sadanori Shimoyama.jpg
|画像サイズ= 250px
|画像説明= 下山定則
|生年月日= [[1901年]][[7月23日]]
|生誕地= {{Flagicon|JPN}} [[兵庫県]][[神戸市]]
|失踪年月日= [[1949年]][[7月5日]]
|没年月日= {{死亡年月日と没年齢|1901|07|23|1949|07|06}}?
|死没地=
|遺体発見= [[東京都]][[足立区]]
|死因 = 不明
|職業= 日本国有鉄道役員
|肩書き= 初代[[日本国有鉄道]][[総裁]]
|任期= 1949年
|後任者= [[加賀山之雄]]
|出身校= [[東京大学|東京帝国大学]][[工学部]]卒業
|配偶者=  あり
|子供= 4人
|親= 下山英五郎(父)
|墓地= [[多磨霊園]]
}}
'''下山 定則'''(しもやま さだのり、[[1901年]]〈明治]]34年〈[[1901年]]〉[[7月23日]] - [[1949年]]〈昭和]]24年〈[[1949年]]〉[[7月6日]]、(死亡日時は不詳)は、[[日本]][[鉄道省|鉄道]][[官僚]]。[[運輸省#運輸事務次官|運輸]][[次官]]、[[日本国有鉄道]][[総裁]](初代)などを歴任した。
 
== 来歴・人物 ==
[[兵庫県]][[神戸市]]出身。[[法曹|司法官]]であった父の英五郎は、同県[[有馬郡]][[高平村 (兵庫県)|高平村]]木器(こうづき)(現在の[[三田市]]木器)の出身であった。転勤に従い少年時代は[[転学|転校]]を繰り返していた。転校するたびにその都市の主要駅の[[時刻表]]を[[暗記]]して人気者になっていたという。[[静岡県立静岡高等学校#概要|静岡中学]]、[[三重県立津高等学校#沿革|津中学]]、[[第三高等学校 (旧制) |三高]]卒業。静岡中学時代は野球部(現在の[[静岡県立静岡高等学校#運動部|静岡高校野球部]])でピッチャーを務めた<ref>高校野球名門校シリーズ8『静岡高校野球部 誇り高き文武両道 Since1896』85ページ。</ref><ref group="注釈">1916年(大正5年)の静中野球部には、当時2年の好投手下山の他、キャプテン[[田中三郎]]以下、[[山家亨]]、[[宮幡靖]]、[[守屋富次郎]]、下山の弟、常夫などが在籍(旧制中学は5年制)。下山は1917年(大正6年)2)2学期になる前に津中学に転校。『静中静高野球部史』 73,74ページ。 昭和39年発行。</ref><ref group="注釈">静岡中学34回同期に、作曲家の[[大木正夫]]、[[拓殖大学]]理事長[[狩野敏]]、後の[[陸上幕僚監部]][[陸上幕僚監部#内部組織の変遷|衛生監]]で[[陸将]]の[[金原節三]]、[[慶應義塾大学経済学部]]長を務めた[[寺尾琢磨]]ら</ref>。三高時代には{{疑問点範囲|[[稚内|稚内]]から|date=2022年3月}}[[鹿児島駅|鹿児島]]まで駅名を[[暗唱]]して友人から「鉄道」というあだ名をつけられた<ref>高橋団吉『島秀雄の世界旅行』技術評論社(2009年)ISBN 9784774135694{{要ページ番号|date=2017-11-16}}</ref>。[[喫煙者]]である。
 
[[1925年]]に[[東京大学|東京帝国大学]][[工学部]]機械工学科を卒業した後は[[鉄道省]]に入り、[[企画院]]技師、[[技術院]]第4部長、[[運輸通信省 (日本)|鉄道総局]]業務局長補佐([[1945年]][[1月]] - )。後に[[新幹線]]プロジェクトのリーダーとなる[[島秀雄]]とは学生時代からの親友。鉄道省でも運輸畑と技術畑を繋ぐ役割をしていた。[[1936年]]から翌年まで島とともに[[ヨーロッパ]]から[[南部アフリカ|南アフリカ]]、[[南アメリカ|南米]]、[[北アメリカ|北米]]を視察している。
 
=== 国鉄総裁へ ===
[[第二次世界大戦]]後の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]による[[連合軍占領下の日本|占領下]]では、名古屋鉄道局長(1945年[[9月]]-)、東京鉄道局長([[1946年]][[3月]]-)を歴任。その後、[[1948年]][[4月]][[運輸省|運輸]][[次官]]に就任。
 
翌1949年[[6月1日]][[日本国有鉄道]](国鉄)が発足して初代[[総裁#法人・機関|総裁]]に就任した。初代総裁には、[[参議院議員]]で[[近畿日本鉄道]]社長だった[[村上義一]]や元[[阪急電鉄]]社長の[[小林一三]]らの候補が挙がったが、結局内部からの起用となった。
 
===「下山事件」===
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[[7月1日]]には、国鉄発足前日に成立した行政機関職員定員法に基づき、空前絶後の職員約10万人の解雇を決定、同[[7月4日|4日]]には[[労働組合|組合]]側に、第一次整理の3万700人を通告した。
 
しかし、翌5日に[[三越]][[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]本店に入った後に消息を絶ち、捜索願いが出されたが6日未明に、[[東京都]][[足立区]]の[[常磐線]]と[[東武伊勢崎線]]が交差する付近で、轢死体となって発見された<ref>{{Cite web|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO39304380S8A221C1CC0000/|title=下山事件の現場(東京・足立) 「黒い霧」今も晴れず|publisher=[[日本経済新聞]]|date=2018-12-22|accessdate=2020-07-04}}</ref>。行方不明および死亡の理由は不明であり[[自殺]]説、[[殺人|他殺]]説両方が飛び交った。なお、下山の死を受けて副総裁の[[加賀山之雄]]が総裁代行に就任し、同年[[9月24日]]に正式に総裁となった。墓所は[[多磨霊園]](21-1-16-6)
 
{{Main|下山事件}}
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== 演じた俳優 ==
* [[小林桂樹]] - 『 [[土曜ドラマ (NHK)#1980年|土曜ドラマ]]戦後史実録シリーズ 空白の900分 - 国鉄総裁怪死事件 -(前・後編)』(1980年、NHK) [[日本放送協会|NHK]] )
 
== 脚注 ==
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{{Reflist|group=注釈}}
<references group="注"/>
 
== 関連項目 ==
* [[東京ヤクルトスワローズ#国鉄時代|国鉄スワローズ(現在の東京ヤクルトスワローズ)]] - 下山から見て次代の国鉄総裁である[[加賀山之雄]]は球団創設時に、「[[鉄道員|鉄道マン]]は鉄道自殺をしない」という験(げん)によって下山定則の他殺説を報じた読売主導のセ・リーグへの加盟申請をさせている。
 
== 外部リンク ==
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{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しもやま さたのり}}
[[Category:運輸事務次官]]
[[Category:日本の鉄道官僚]]
[[Category:日本国有鉄道総裁]]
[[Category:東京大学出身の人物運輸事務次官]]
[[Category:旧制第三高等学校出身の人物]]
[[Category:鉄道事故死した人物]]
[[Category:神戸市出身の多磨霊園に埋葬されている人物]]
[[Category:旧制第三高等学校出身の人物]]
[[Category:三重県立津高等学校出身の人物]]
[[Category:静岡県立静岡高等学校出身の人物]]
[[Category:東京大学出身の人物]]
[[Category:神戸市出身の人物]]
[[Category:1901年生]]
[[Category:1949年没]]
[[Category:多磨霊園に埋葬されている人物]]