「ベルナドッテ王朝」の版間の差分

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==概要==
スウェーデンの[[ホルシュタイン=ゴットルプ王朝]][[カール13世 (スウェーデン王)|カール13世]](在位:[[1809年]] - [[1818年]])には世継ぎが生まれなかったため、スウェーデン国民議会は、当時ヨーロッパの覇権を握っていた[[ナポレオン・ボナパルト]]配下の将軍開祖である[[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|ジャン=バティスト・ベルナドット]](スウェーデン語名ベナドット)を王位後継者に推戴した。ベルナドット南[[フランス]]の[[ベアルン]]州[[ポー]]出身の平民兵卒としてフランス軍に入り士官へと昇進し、さらに[[フランス革命]]後の動乱の中で[[ナポレオン・ボナパルト]]の信任を得て[[フランス元帥]]、[[ポンテコルヴォ]][[プリンス|大公]]にまで出世していた。ポンテコルヴォ王朝の名はこの時期の称号に由来する
 
スウェーデンとは何の係累も無い家系であったが、[[ホルシュタイン=ゴットルプ王朝]]の[[カール13世 (スウェーデン王)|カール13世]]が世継ぎに恵まれなかったため、スウェーデン国民議会によって王位後継者に推戴される。[[1810年]]、カール13世の養子としてカール・ヨハンと改名し、スウェーデン[[王太子]]兼[[摂政]]となったベルナドットは[[1813年]]、[[ロシア帝国|ロシア]]・[[プロイセン王国|プロイセン]]、スウェーデン連合軍を指揮して[[ライプツィヒの戦い]]([[解放戦争 (ドイツ)|解放戦争]])でナポレオン軍を撃破し、[[1814年]]の[[キール条約]]で[[デンマーク]]から[[ノルウェー]]を割譲させた。同年の{{仮リンク|モス条約|en|Convention of Moss|sv|Konventionen i Moss}}の締結により、両国は連合王国となった。ノルウェーとの[[同君連合]]は[[1905年]]まで続いた。1818年にカール13世が死去するとカール・ヨハン(ベルナドッテ)は[[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|カール14世ヨハン]]として[[スウェーデン国王]](兼[[ノルウェー国王]])に即位し、現在まで続くベルナドッテ王朝を開いた。そもそも出自が平民で、即位までの経緯からしてスウェーデンとは何の係累も無い家系であったが、[[グスタフ5世 (スウェーデン王)|グスタフ5世]]の王妃[[ヴィクトリア・フォン・バーデン|ヴィクトリア]]から前王家の血を引いている
 
1818年、カール13世の崩御を受けてカール・ヨハンは[[カール14世ヨハン (スウェーデン王)|カール14世ヨハン]]として[[スウェーデン国王]](兼[[ノルウェー国王]])に即位し、現在まで続くベルナドッテ王朝を開いた。ポンテコルヴォ王朝の名は王位継承者への推戴前の称号「ポンテコルヴォ大公」に由来する。[[グスタフ5世 (スウェーデン王)|グスタフ5世]]の王妃[[ヴィクトリア・フォン・バーデン|ヴィクトリア]]から前王家の血を引いている。ノルウェーとの[[同君連合]]は[[1905年]]まで続いた。
スウェーデンは以後、19世紀中頃の[[汎スカンディナヴィア主義]]を経て、20世紀には[[武装中立]]政策を[[2024年]]に[[北大西洋条約機構]](NATO)に加盟するまで標榜していた。これにより[[第一次世界大戦]]、[[第二次世界大戦]]では中立を維持した。
 
[[1979年]]、[[スウェーデンの憲法|スウェーデン憲法]]改正により、[[カール16世グスタフ (スウェーデン王)|カール16世グスタフ]]現国王はすべての政治権力を喪失してスウェーデンの儀礼的[[元首|国家元首]]となった。[[1980年]]、スウェーデン王位継承法の改正により、それまでの[[男系]]継承から、男女を問わず出生順に王位継承権が生じることになったため、長女の[[ヴィクトリア (スウェーデン皇太子)|ヴィクトリア皇太子]]が王位継承者となっている。