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| name = 足尾銅山
| image = Ashio Copper Mine circa 1895.JPG
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| caption = 1895年の足尾銅山
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[[File:Ashio Seirenjo.jpg|thumb|足尾製錬所跡(手前)と鉱山の備前楯山(奥)]]
'''足尾銅山'''(あしおどうざん)は、[[栃木県]][[上都賀郡]][[足尾町]](現在の[[日光市]]足尾地区)にあった[[銅山]]([[銅]]の[[鉱山]])。「足尾銅山跡」として国の[[史跡]]に指定されている
 
近現代には古河鉱業株式会社(現・[[古河機械金属]]株式会社)が所有し、1905年(明治|38年)以後の名称は'''古河鉱業株式会社足尾鉱業所'''。[[明治]]時代には銅だけでなく[[三酸化二ヒ素|亜砒酸]]も産出し、精錬の副産物として[[硫酸]]も生産していた。明治時代には日本初の公害事件とされる[[足尾鉱毒事件]]が起きたことでも知られる。「足尾銅山跡」として国の[[史跡]]に指定されている
 
== 概要歴史 ==
=== 近世 ===
足尾銅山は[[1550年]]([[天文 (元号)|天文]]19年)に発見と伝えられている。[[1610年]]([[慶長]]15年)、[[百姓]]2人が[[鉱床]]を発見し、[[江戸幕府]]直轄の鉱山として本格的に採掘が開始されることになった。足尾に幕府は鋳銭座を設け、銅山は大いに栄え、足尾の町は「足尾千軒」と言われる発展を見せた。採掘された銅は[[日光東照宮]]や[[江戸]]・[[増上寺]]の部材などに使われた<ref name="日経20190906" />ほか、当時の代表的な[[通貨]]である[[寛永通宝]]が鋳造されたこともある。江戸時代にはピーク時で年間1,200トンもの銅を産出していた。その後、一時は採掘量が極度に減少し、[[幕末]]から[[明治時代|明治]]初期にかけてはほぼ閉山状態となっていた。明治4年(1871年)には民営化されたが、銅の産出量は年間150トンにまで落ち込んでいた。
足尾銅山は[[天文 (元号)|天文]]19年(1550年)に発見されたと伝えられている。[[慶長]]15年(1610年)、2人の百姓が[[鉱床]]を発見し、[[江戸幕府]]直轄の鉱山として本格的に採掘が開始されることになった。足尾に幕府は鋳銭座を設け、銅山は大いに栄え、足尾の町は「足尾千軒」と言われる発展を見せた。
足尾銅山の将来性に悲観的な意見が多い中、[[1877年]]([[明治]]10年)に[[古河市兵衛]]は足尾銅山の経営に着手、数年間は全く成果が出なかったが、[[1881年]](明治14年)に待望の有望鉱脈を発見。その後、[[探鉱]]技術の進歩によって次々と有望鉱脈が発見された。古河市兵衛の死後、1905年(明治38年)3月に会社としての古河鉱業の経営となった。当時の明治政府の[[富国強兵]]政策を背景に、銅山経営は[[久原財閥]]の[[日立鉱山]]、[[住友家]]の[[別子銅山]]とともに急速な発展を遂げた。[[20世紀]]初頭には、[[日本]]の銅産出量の40%ほどの生産を上げる大銅山に成長した<ref name="日経20190906"/>。
 
採掘された銅は[[日光東照宮]]や[[江戸]]の[[増上寺]]の部材などに使われたほか<ref name="日経20190906" />、当時の代表的な通貨である[[寛永通宝]]の鋳造に用いられたこともある。江戸時代にはピーク時で年間1,200トンもの銅を産出していたが、その後は採掘量が極度に減少し、[[幕末]]から[[明治時代|明治]]初期にかけてはほぼ閉山状態となっていた。
しかしこの鉱山開発と製錬事業の発展の裏では、足尾山地の樹木が坑木・燃料のために伐採され、掘り出した鉱石を製錬する工場から排出される煙が[[大気汚染]]を引き起こしていた。荒廃した山地を水源とする[[渡良瀬川]]は[[洪水]]を頻発し、[[製錬]]による廃棄物を流し、足尾山地を流れ下った[[流域]]の平地に流れ込み、[[水質汚染|水質]]・[[土壌汚染]]をもたらし、広範囲な[[環境汚染]]([[公害]])を引き起こした。いわゆる、[[足尾鉱毒事件]]である。[[1891年]]([[明治]]24年)、[[田中正造]]による[[帝国議会|国会]]での発言で大きな政治問題となった。[[1890年代]]より、[[鉱毒]]予防工事や渡良瀬川の改修工事は行われたものの、鉱害よりも銅の生産を優先し、技術的に未熟なこともあって、鉱毒被害は収まらなかった。
 
=== 近代 ===
[[1973年]]([[昭和]]48年)2月27日をもって採鉱を停止し、銅山としての歴史を閉じた。江戸幕府や[[古河財閥]]により掘り進められた[[坑道]]は、総延長1,234キロメートルに達した<ref name="日経20190906">[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO49397830U9A900C1L83000/ 【ぐるっと首都圏】足尾銅山観光(栃木県日光市)殖産興業、光と影を知る]『[[日本経済新聞]]』朝刊2019年9月6日(首都圏経済面)2019年9月27日閲覧</ref>。
[[明治維新]]後の1871年(明治4年)には足尾銅山が民営化されたが、銅の産出量は年間150トンにまで落ち込んでいた。 足尾銅山の将来性に悲観的な意見が多い中、1877年(明治10年)に[[古河市兵衛]]が足尾銅山の経営に着手した。数年間は全く成果が出なかったが、1881年(明治14年)に待望の有望鉱脈を発見し、その後は探鉱技術の進歩によって次々と有望鉱脈が発見された。
 
古河市兵衛の死後、1905年(明治38年)3月には足尾銅山が[[古河機械金属|古河鉱業]]足尾鉱業所となった。当時の明治政府の[[富国強兵]]政策を背景に、銅山経営は[[久原財閥]]の[[日立鉱山]]、[[住友家]]の[[別子銅山]]とともに急速な発展を遂げた。20世紀初頭には、日本の銅産出量の40%ほどの生産を上げる大銅山に成長した<ref name="日経20190906"/>。
 
しかしこの鉱山開発と製錬事業の発展の裏では、足尾山地の樹木が坑木・燃料のために伐採され、掘り出した鉱石を製錬する工場から排出される煙が[[大気汚染]]を引き起こしていた。荒廃した山地を水源とする[[渡良瀬川]]は洪水を頻発し、[[製錬]]による廃棄物を流し、足尾山地を流れ下った流域の平地に流れ込み、[[水質汚染|水質]]・[[土壌汚染]]をもたらし、[[足尾鉱毒事件]]と呼ばれる[[環境汚染]]([[公害]])を引き起こした。1891年(明治24年)、[[田中正造]]による[[帝国議会|国会]]での発言で大きな政治問題となった。1890年代から[[鉱毒]]予防工事や渡良瀬川の改修工事が行われたものの、鉱害よりも銅の生産を優先したことや、鉱毒予防が技術的に未熟なこともあって、鉱毒被害は収まらなかった。
 
=== 現代 ===
[[File:Ashio Copper Mine mine shaft ac (1).jpg|thumb|足尾銅山観光]]
 
1973年(昭和48年)2月27日をもって古河鉱業足尾鉱業所は採鉱を停止し(閉山)、足尾銅山は鉱山としての歴史を閉じた。江戸幕府や[[古河財閥]]により掘り進められた[[坑道]]は、総延長1,234キロメートルに達した<ref name="日経20190906">[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO49397830U9A900C1L83000/ 【ぐるっと首都圏】足尾銅山観光(栃木県日光市)殖産興業、光と影を知る]『[[日本経済新聞]]』2019年9月6日朝刊、首都圏経済面、2019年9月27日閲覧</ref>。
閉山後も自社水力発電所と工業用水が山腹水であることから、閉山後も輸入鉱石による製錬事業は続けられたが、[[1989年]][[平成]]元年)に[[わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線|JR足尾線]]の[[貨物列車|貨物]]輸送が廃止されて以降はると、鉱石と副生成物の硫酸の輸送が困難になったことから製錬事業を事実上停止し、[[た。2008年]](平成20年)時点では、製錬施設を利用しての[[産業廃棄物]](廃酸、廃[[アルカリ]]など)[[リサイクル]]事業を行っているのみである<ref name="足尾精錬20080512">[http://www.ea21.jp/list/pdf/0000819.pdf] 足尾製錬株式会社 平成19年度EA21活動報告(平成20] 足尾製錬株式会社、2008年5月12日</ref>。
 
1980年(昭和55年)4月、足尾町(現・[[日光市]])によって銅山の歴史を伝える観光施設の[[足尾銅山観光]]が開業した。実際の坑口から[[トロッコ]]で坑道に入る体験型見学施設であり、近隣には鉱毒事件にも焦点を当てた古河足尾歴史館もある<ref name="日経20190906"/>。
 
2012年(平成24年)、足尾銅山・映像データベース研究会が「足尾銅山写真データベース」を公開した。写真家の小野崎一徳は1883年(明治16年)から46年間にわたって現地を訪れ、足尾銅山や人間の営みを白黒写真に記録していた。柴岡信一郎による『足尾銅山の{{ルビ|郷|さと}} 生きている近代産業遺産』は、足尾銅山の栄枯盛衰を記録したフォトルポルタージュで、日本一の銅産出量を誇り近代産業の発展に大きく貢献した足尾町の現状を記録すると共に、地域振興において近代産業遺産をどのように活用できるかを述べている。
 
=== 年表 ===
; 近世
[[ファイル:Iwajuku Okanobori Kageyoshi statue.jpg|thumb|170px|銅山奉行の[[岡上景能]]]]
* [[慶長]]15年(1610年) - 足尾銅山が開山。
* [[寛文]]・[[貞享]]年間(1661年~1687年) - 銅山の全盛期であった。
* [[元禄]]年間(1688年~1704年) - 産銅量が激減したことで[[江戸幕府|幕府]]は運営資金に窮する。
* [[文化 (元号)|文化]]13年(1816年) - 銅量低下による資金の行き詰まりに見舞われた。この年、[[戸谷半兵衛#三代目戸谷半兵衛光寿|戸谷半兵衛光寿]]ら6人衆が5,000[[両#通貨単位|両]]を幕府に上納し、困窮者の救済にあたる。[[武蔵国]][[本庄宿]]の[[庄屋|名主]][[戸谷半兵衛|戸谷半兵衛光寿]]や[[森田豊香|森田助左衛門豊香]]ら3人と、[[上野国]](後の[[群馬県]])の有力[[庄屋|名主]][[加部安左衛門]]兼重や[[星野長太郎|星野家8代星野七郎右衛門朋存]]ら3人を合わせた6人衆が共に足尾銅山[[鋳造|吹所]]世話役(幕府直営の足尾銅山を資金面から支援する役儀)を[[岩鼻村|岩鼻]][[代官]]所から拝命した。世話役の加部と戸谷は各金1,000両、他4人は各金750両、合計で5,000両を幕府に上納した。
 
; 近代
それらとは別に、銅山の歴史を伝える施設「[[足尾銅山観光]]」が1980年、足尾町(現・日光市)により1980年(昭和55年)開業し、現在に至る。[[トロッコ]]で坑道に入り見学することができる。近隣には古河足尾歴史館もあり、鉱毒事件を含めて学べる<ref name="日経20190906"/>。
[[File:Tanaka Shozo.jpg|thumb|170px|鉱毒問題を追及した田中正造]]
* 1877年(明治10年) [[古河市兵衛]]が足尾銅山の経営に携わる。
* 1884年(明治17年) 足尾銅山の銅生産量が日本一となる。
* 1885年(明治18年) 『[[朝野新聞]]』、鉱毒被害を報道。
* 1887年(明治20年) [[松木村]]で大規模[[山火事]]。間藤付近まで飛び火する。[[技師]]の[[塩野門之助]]が我が国初の[[転炉]]を開発。
* 1890年(明治23年)(明治23年) [[渡良瀬川]]の大[[洪水]]で鉱毒の被害が拡大する。
* 1891年(明治24年) 田中正造、[[第2回帝国議会]]で鉱業停止要求。
* 1896年(明治29年) 通洞坑が貫通。
* 1896年(明治29年) 田中正造、第9議会において永久[[示談]]の不当性を追及。有志と雲竜寺に群馬栃木両県鉱毒事務所を設置。
* 1897年(明治30年)以降 禿山となった銅山周辺の山で[[植林]]がはじまる(2021年現在継続中)。
* 1897年(明治30年) 鉱毒被害民、大挙押出し。東京鉱山監督署長、足尾銅山に対して鉱毒除防工事命令。
* 1897年(明治30年) 足尾銅山に関する第1回鉱毒調査会を組織(会長は農相の[[榎本武揚]])。
* 1898年(明治31年) [[大蔵省]]、鉱毒被害民に対して[[地租条例]]による普通荒地免租処分を通達。該当者は[[公民権]]喪失。
* 1900年(明治33年) - [[川俣事件]]発生。
* 1901年(明治34年) - 田中正造が[[衆議院議員]]を辞職。
* 1901年(明治34年) - 田中正造が議会開院式より帰途の[[明治天皇]]に[[直訴|直訴状]]を提出しようとして遮られる。[[麹町警察署]]にて取り調べ、夕刻釈放。
* 1901年(明治34年) - 田中正造が[[巣鴨]]監獄に服役。銅山、[[松木村]]全域を買収。
* 1902年(明治35年) - [[足尾台風]]直撃。降水量315mm。被害甚大。
* 1903年(明治36年) - 古河市兵衛死去、養子の古河潤吉(実父[[陸奥宗光]])が足尾銅山の経営を担うようになる。
* 1904年(明治37年) - 待矢場両堰普通水利組合との示談延長を停止。
* 1905年(明治38年) - 経営会社を[[古河鉱業]]と改称。古河潤吉死去、古河市兵衛の実子である古河虎之助が後継者となる。
* 1906年(明治39年) - [[谷中村]]が廃村。[[日光精銅所]]操業開始。
* 1907年(明治40年) - [[足尾暴動事件]]。銅山施設の大部分が焼失。
* 1907年(明治40年) - 足尾分署、[[足尾警察署]]として独立。
* 1907年(明治40年) - 谷中堤内地権者、東京救済会の勧告に従い土地収用補償金額裁決不服訴訟を提起。
* 1911年(明治44年) - 谷中村民16戸137人、[[北海道]][[佐呂間町|サロマベツ原野]]に移住(第1次)。
* 1912年(明治45年) - [[わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線|足尾鉄道]]([[桐生駅]] - [[間藤駅]]間、現在の[[わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線]])開通。
* 1913年(大正2年) - 田中正造死去。
* 1921年(大正10年) - [[古河商事]]が[[倒産|破綻]]し、古河鉱業に合併される。
* 1926年(大正15年) - [[馬車鉄道]]廃止。ガソリンカーに転換。
* 1934年(昭和9年) - 沈殿池が溢れて渡良瀬川沿岸で鉱毒被害発生。待矢場両堰普通水利組合が派遣した監視員、銅山が故意に廃石などを河川に捨てるのを目撃、古河鉱業に厳重抗議。
* 1934年(昭和9年) - 北海道移住した旧谷中村民が帰郷請願書を栃木県知事に提出。
* 1944年(昭和19年) - [[太平洋戦争]]下で足尾銅山が[[軍需会社]]に指定。
 
; 現代
[[2012年]](平成24年)、「足尾銅山・映像データベース研究会」が4年がかりで作成してきた「足尾銅山写真データベース」を6月15日に公開すると発表した。1883年(明治16年)から46年間に亘り現地を訪れ、当時の状況を記録していた小野崎一徳によって撮影された写真を中心に、銅山と人の営みを白黒写真で記録したもので、撮影時期・場所、説明などが付記されている。
* 1950年(昭和25年) - 三栗谷用水、鉱毒沈砂池を設置。総工費3,200万円のうち100万円を古河鉱業の寄付金で賄う。
* 1953年(昭和28年) - 待矢場両堰土地改良区と和解成立。土地改良資金800万円を寄付する。
* 1954年(昭和29年) - 小滝坑、廃止。
* 1956年(昭和31年) - 自溶[[製錬]]設備が完成し、[[二酸化硫黄|亜硫酸ガス]]の排出が減少。
* 1958年(昭和33年) - 源五郎沢堆積場が[[堤防#破堤(決壊)と欠壊|決壊]]。待矢場両堰に鉱毒が流入。毛里田村鉱毒根絶期成同盟会成立。
* 1961年(昭和36年) - [[銅]]・[[鉛]]・[[亜鉛]]の[[貿易自由化]]決定 これ以降、国内鉱山は次第に経営難となる。
* 1966年(昭和41年) - 天狗沢堆積場が決壊。毛里田村鉱毒根絶期成同盟会、古河鉱業に抗議。
* 1968年(昭和43年) - 政府の水質審議会、渡良瀬川の銅濃度基準を0.06ppmで決定。
* 1970年(昭和45年) - [[桐生市]]水道局、渡良瀬川から基準値を超える[[砒素]]を検出。
* 1971年(昭和46年) - [[太田市]]毛里田地区の米から[[カドミウム]]が検出される。
* 1972年(昭和47年) - 太田市毛里田地区の米、土壌のカドミウム汚染は、足尾銅山が原因と群馬県が断定(古河鉱業は否認)。
* 1973年(昭和48年) - 足尾銅山閉山、[[製錬]]事業は継続される。
 
; 閉山後
また柴岡信一郎による『足尾銅山の{{ルビ|郷|さと}}―生きている近代産業遺産』は、足尾銅山の栄枯盛衰を記録したフォトルポルタージュで、日本一の銅産出量を誇り近代産業の発展に大きく貢献した足尾町の現状を記録すると共に、地域振興において近代産業遺産をどのように活用できるかを述べている。
* 1974年(昭和49年) - 毛里田鉱毒根絶期成同盟会と、15億5,000万円で和解が成立。
* 1976年(昭和51年) - [[草木ダム]]竣工。
* 1980年(昭和55年) - 足尾町によって[[足尾銅山観光]]が開業。
* 1989年(平成元年) - [[東日本旅客鉄道|JR]]足尾線が、わたらせ渓谷鐵道への転換に伴い貨物廃止。足尾での製錬事業が事実上休止状態になった。
* 2002年(平成14年) - 環境基準の強化により、本山製錬所での廃棄物焼却事業を休止。
* 2006年(平成18年) - 足尾警察署が廃止されて足尾[[交番]]に転換。
* 2007年(平成19年) - 足尾銅山を「負の遺産」として[[世界遺産#暫定リスト|世界遺産暫定リスト]]記載に向けて[[文化庁]]に要望書を提出。[[日本の地質百選]]に選定。[[経済産業省]]が取りまとめた[[近代化産業遺産|近代化産業遺産群33]]に「足尾銅山関連遺産」として認定される。
* 2008年(平成20年) - 通洞坑と宇都野火薬庫跡が国の[[史跡]]に指定。
* 2010年(平成22年) - 製錬場が一部の施設を残して解体される。
* 2011年(平成23年)3月11日 - 1958年に決壊した源五郎沢堆積場が[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])により再び決壊。鉱毒汚染物質が渡良瀬川に流下し、下流の農業用水取水地点で基準値を超える[[鉛]]が検出される<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.shimotsuke.co.jp/special/ima-ikiru-shozo/20130702/1078651|title= 第2部<1> 永遠に続く公害対策 「宿命」年4~5億円投入|publisher= 『[[下野新聞]]』|accessdate=2015-12-11}}</ref>。また、決壊により、わたらせ渓谷鐵道の線路が破損し、同鉄道は同年4月1日まで運休を余儀なくされた。
* 2012年(平成24年) - 6月15日、「足尾銅山写真データベース」が正式公開される。
* 2022年(令和4年) - 2月28日、閉山50年を迎える。
 
== 公害 ==
{{Main|足尾鉱毒事件}}
周辺の山々の森林では、鉱毒(亜硫酸ガス)による直接的な被害のほか、[[坑木]]を調達するための伐採、人口が増えたことによる[[山火事]]の発生、生活に必要な[[薪炭]]確保のための伐採などが行われたため荒廃が深刻化し、一部は自然回復が不能な[[はげ山]]と化した。1892年(明治25年)11月に導入されたベッセマー精錬は、それまで1ケ月かかっていた工程を2日に短縮しその生産増強に伴い亜硫酸ガスによる煙害も増大し、自熔鉱が導入される1956年(昭和31年)になって幾分か鎮静化した。これら森林を復旧するために国や県は、21世紀に入ってもなお[[治山]]事業による復旧を続けている<ref>{{Cite web|和書|date= 2011年1月28日|url=http://www.pref.tochigi.lg.jp/d51/02gyoumunaiyou/06moridukuri3/ashionotisan.html |title=足尾の治山 |publisher=栃木県 県西環境森林事務所|accessdate=2020-07-23}}</ref>。
 
== 施設 ==
足尾銅山は[[備前楯山]]にあり、周辺の山からは[[銅]]は産出しなかった。
=== 鉱山 ===
備前楯山と呼ばれる銅山が1つある。その他の足尾近隣の山からは[[銅]]は産出しなかった。
 
=== 坑口 ===
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[[スラグ|鉱石くず]](銅含有量の少ない鉱石、選鉱汚泥、カラミ)などを溜めている場所で、[[鉱滓ダム]]ともいわれる。鉱山保安法に基づき公表されているものは足尾町内に14箇所(小滝堆積場は1990年(平成2年)6月堆積物を搬出したため減となり現在は13箇所)あり、その他、法律未満の堆積場や坑内からの捨石を置いた集積場等は中央グラウンドや旧社宅跡地をはじめとして各所にある。13の使用済み堆積場は金属鉱業等特別措置法により一応の緑化等の鉱害対策がなされたが、有越沢堆積場をはじめとする幾つかの堆積場は今後も維持管理と補植作業の継続が必要性とされている。なお簀子橋堆積場は中才浄水場から発生する汚泥の排出先として現在も使用され、沈殿後の上澄水を排出している。
 
=== 社員住宅その他 ===
; 社宅
[[社宅]]は坑口付近に多くつくられ、ほとんどの鉱夫は徒歩で[[通勤]]した。[[小学校]]や[[店|商店]]なども周辺につくられた。閉山後は無人となっており、現存しないものも多い。
 
===; 神社 ===
本山坑向かいの山頂付近に「本山鉱山神社」が存在する。本殿と拝殿の2棟があるが、何れも放棄されている。このほか、通洞坑には別に神社があり、足尾銅山観光出口付近に拝殿がある。
 
===; 鉄索 ===
足尾ではケーブルカー([[索道]])のことを鉄索と呼んだ。1890年(明治23年)にまず、[[細尾峠]]を越えて[[日光市|日光]]を結ぶ路線が作られた。最も大規模なものは、本山坑から銀山平を経て小滝坑に向かい、そこからさらに[[利根村]]根利に向かう路線である。物資や鉱石を運ぶため、足尾町内に大規模なものがいくつも作られたが、閉山後に全て撤去されている。[[登山家]]を乗せたという記述も残っており、鉱夫などの輸送にも使われたとみられる。
 
===; 鉄道 ===
人や物資を運ぶために町内の道路に[[線路 (鉄道)|線路]]が敷かれた。初期は[[足尾銅山馬車鉄道|馬車鉄道]]で、後期にはほぼ同じ[[鉄道路線|路線]]をガソリンカー<ref>[[気動車]]ではなく、[[内燃機関車|ガソリン機関車]]が[[客車]]を牽引する[[列車]]のことを足尾の人々は「ガソリンカー」と呼んだ。[[足尾銅山馬車鉄道#沿革|『足尾銅山馬車鉄道』「沿革」]]を参照。</ref>が走った<ref>[[臼井茂信]]「私の思い出写真 2 フォード万歳」『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』(No.168 1975年4月号、P.86, [[交友社]])に[[1934年]](昭和9年)当時のガソリン機関車(10号)と客車(25号)の写真が掲載されている。</ref>。初期には馬車鉄道であった路線が、後に鉄索や鉄道に切り替えられたところも多い。
 
<gallery>
99 ⟶ 178行目:
Image:Sunoko bashi2.jpg|簀子橋堆積場近影。2017年12月撮影。
</gallery>
 
== 年表 ==
=== 江戸時代 ===
[[ファイル:Iwajuku Okanobori Kageyoshi statue.jpg|thumb|120px|銅山奉行・[[岡上景能]]]]
* [[1610年]] 足尾銅山開山。
* [[1661年]]~[[1687年]]([[寛文]]・[[貞享]]期)が銅山の全盛期であった。
* [[1688年]]~[[1704年]]([[元禄]]期)になって産銅量が激減し[[江戸幕府|幕府]]は運営資金に窮していた。
* [[1816年]]([[文化 (元号)|文化]]13年) 銅量低下による資金の行き詰まりに見舞われた。この年、[[戸谷半兵衛#三代目戸谷半兵衛光寿|戸谷半兵衛光寿]]ら6人衆が5,000[[両#通貨単位|両]]を幕府に上納し、困窮者の救済にあたる。[[武蔵国]][[本庄宿]]の[[庄屋|名主]][[戸谷半兵衛|戸谷半兵衛光寿]]や[[森田豊香|森田助左衛門豊香]]ら3人と、[[上野国]](後の[[群馬県]])の有力[[庄屋|名主]][[加部安左衛門]]兼重<ref>http://gpnotebook.gunmablog.net/e295444.html</ref>や[[星野長太郎|星野家8代星野七郎右衛門朋存]]ら3人を合わせた6人衆が共に'''足尾銅山'''[[鋳造|吹所]]世話役(幕府直営の'''足尾銅山'''を資金面から支援する役儀)を[[岩鼻村|岩鼻]][[代官]]所から拝命した。世話役の加部と戸谷は各金1,000両、他4人は各金750両、合計で5,000両を幕府に上納した。
* [[1841年]] [[田中正造]]が現在の栃木県[[佐野市]]小中町に産まれる。
 
=== 戦前 ===
[[File:Tanaka Shozo.jpg|thumb|120px|田中正造]]
* [[1877年]] [[古河市兵衛]]が足尾銅山の経営に携わる。
* [[1884年]] 足尾銅山の銅生産量が日本一となる。
* [[1885年]] 『[[朝野新聞]]』、鉱毒被害を報道。
* [[1887年]] [[松木村]]で大規模[[山火事]]。間藤付近まで飛び火する。[[技師]]の[[塩野門之助]]が我が国初の[[転炉]]を開発。
* [[1890年]] [[渡良瀬川]]の大[[洪水]]で鉱毒の被害が拡大する。
* [[1891年]] 田中正造、[[第2回帝国議会]]で鉱業停止要求。
* [[1896年]] 通洞が貫通
* 1896年 田中正造、第9議会において永久[[示談]]の不当性を追及。有志と雲竜寺に群馬栃木両県鉱毒事務所を設置。
* [[1897年]]以降 禿山となった銅山周辺の山で[[植林]]がはじまる(2021年現在継続中)。
* 1897年 鉱毒被害民、大挙押出し。東京鉱山監督署長、足尾銅山に対して鉱毒除防工事命令。
* 1897年 足尾銅山に関する第1回鉱毒調査会を組織(会長は農相の[[榎本武揚]])。
* [[1898年]] [[大蔵省]]、鉱毒被害民に対して[[地租条例]]による普通荒地免租処分を通達。該当者は[[公民権]]喪失。
* [[1900年]] [[川俣事件]]発生。
* [[1901年]] 田中正造、[[衆議院議員]]辞職。
* 1901年 田中正造、議会開院式より帰途の[[明治天皇]]に[[直訴|直訴状]]を提出しようとして遮られる。[[麹町警察署]]にて取り調べ、夕刻釈放。
* 1901年 田中正造、[[巣鴨]]監獄に服役。銅山、[[松木村]]全域を買収。
* [[1902年]] [[足尾台風]]直撃。降水量315mm。被害甚大。
* [[1903年]] 古河市兵衛死去、養子の古河潤吉(実父[[陸奥宗光]])が足尾銅山の経営を担うようになる。
* [[1904年]] 待矢場両堰普通水利組合との示談延長を停止。
* [[1905年]] 経営会社を[[古河鉱業]]と改称。古河潤吉死去、古河市兵衛の実子である古河虎之助が後継者となる。
* [[1906年]] [[谷中村]]、廃村。[[日光精銅所]]操業開始。
* [[1907年]] [[足尾暴動事件]]。銅山施設の大部分が焼失。
* 1907年 足尾分署、[[足尾警察署]]として独立。
* 1907年 谷中堤内地権者、東京救済会の勧告に従い土地収用補償金額裁決不服訴訟を提起。
* [[1911年]] 谷中村民16戸137人、[[北海道]][[佐呂間町|サロマベツ原野]]に移住(第1次)。
* [[1912年]] [[わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線|足尾鉄道]]([[桐生駅]] - [[間藤駅]]間、現在の[[わたらせ渓谷鐵道わたらせ渓谷線]])開通。
* [[1913年]] 田中正造死去。
* [[1921年]] [[古河商事]]が[[倒産|破綻]]し、古河鉱業に合併される。
* [[1926年]] [[馬車鉄道]]廃止。ガソリンカーに転換。
* [[1934年]] 沈殿池が溢れて渡良瀬川沿岸で鉱毒被害発生。待矢場両堰普通水利組合が派遣した監視員、銅山が故意に廃石などを河川に捨てるのを目撃、古河鉱業に厳重抗議。
* 1934年 北海道移住した旧谷中村民、帰郷請願書を栃木県知事に提出。
* [[1944年]] [[太平洋戦争]]下、足尾銅山が[[軍需会社]]に指定。
 
=== 戦後 ===
* [[1950年]] 三栗谷用水、鉱毒沈砂池を設置。総工費3,200万円のうち100万円を古河鉱業の寄付金で賄う。
* [[1953年]] 待矢場両堰土地改良区と和解成立。土地改良資金800万円を寄付する。
* [[1954年]] 小滝坑、廃止。
* [[1956年]] 自溶[[製錬]]設備が完成し、[[二酸化硫黄|亜硫酸ガス]]の排出が減少。
* [[1958年]] 源五郎沢堆積場が[[堤防#破堤(決壊)と欠壊|決壊]]。待矢場両堰に鉱毒が流入。毛里田村鉱毒根絶期成同盟会成立。
* [[1961年]] [[銅]]・[[鉛]]・[[亜鉛]]の[[貿易自由化]]決定 これ以降、国内鉱山は次第に経営難となる。
* [[1966年]] 天狗沢堆積場が決壊。毛里田村鉱毒根絶期成同盟会、古河鉱業に抗議。
* [[1968年]] 政府の水質審議会、渡良瀬川の銅濃度基準を0.06ppmで決定。
* [[1970年]] [[桐生市]]水道局、渡良瀬川から基準値を超える[[砒素]]を検出。
* [[1971年]] [[太田市]]毛里田地区の米から[[カドミウム]]が検出される。
* [[1972年]] 太田市毛里田地区の米、土壌のカドミウム汚染は、足尾銅山が原因と群馬県が断定(古河鉱業は否認)。
* [[1973年]] 足尾銅山閉山、[[製錬]]事業は継続される。
 
=== 閉山後 ===
* [[1974年]] 毛里田鉱毒根絶期成同盟会と、15億5,000万円で和解が成立。
* [[1976年]] [[草木ダム]]竣工。
* [[1980年]] 足尾町「[[足尾銅山観光]]」がオープン。
* [[1989年]] [[東日本旅客鉄道|JR]]足尾線が、わたらせ渓谷鐵道への転換に伴い貨物廃止。足尾での製錬事業が事実上休止状態になった。
* [[2002年]] 環境基準の強化により、本山製錬所での廃棄物焼却事業を休止。
* [[2006年]] 足尾警察署廃止。足尾[[交番]]に。
* [[2007年]] 足尾銅山を「負の遺産」として[[世界遺産#暫定リスト|世界遺産暫定リスト]]記載に向けて[[文化庁]]に要望書を提出。[[日本の地質百選]]に選定。[[経済産業省]]が取りまとめた[[近代化産業遺産|近代化産業遺産群33]]に「足尾銅山関連遺産」として認定される。
* [[2008年]] 通洞坑と宇都野火薬庫跡が国の[[史跡]]に指定。
* [[2010年]] 製錬場が一部の施設を残して解体される。
* [[2011年]][[3月11日]]、1958年に決壊した源五郎沢堆積場が[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])により再び決壊。鉱毒汚染物質が渡良瀬川に流下し、下流の農業用水取水地点で基準値を超える[[鉛]]が検出される<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.shimotsuke.co.jp/special/ima-ikiru-shozo/20130702/1078651|title= 第2部<1> 永遠に続く公害対策 「宿命」年4~5億円投入|publisher= 『[[下野新聞]]』|accessdate=2015-12-11}}</ref>。また、決壊により、わたらせ渓谷鐵道の線路が破損し、同鉄道は同年4月1日まで運休を余儀なくされた。
* [[2012年]][[6月15日]]、「足尾銅山写真データベース」が正式公開される。
* 2022年2月28日、閉山50年を迎える
 
== 舞台となった作品 ==
<small>※発表順</small>
; 映画
* [[将軍家光の乱心 激突]] (1989年) - [[徳川家綱|竹千代]]・[[矢島局]]・[[堀田正俊]]が投獄された場所として登場
 
; ラジオドラマ
* 『銅山』(1953年) - [[木下順二]]が手掛けた[[NHK]][[ラジオドラマ]]<ref name="村上2006p590">村上安正『足尾銅山史』随想社、2006年、p.590</ref>。
 
; 小説
* [[坑夫]] (1908年) - [[夏目漱石]]の長編小説。作中では明らかにされていないものの、足尾銅山が舞台であるとされている。
* 『渡良瀬川』(1941年) - [[大鹿卓]]の長編小説。[[足尾鉱毒事件]]を主題としている<ref name="村上2006p590"/>。[[中央公論社]]。大鹿卓は[[秋田鉱山専門学校 (旧制)|旧制秋田鉱山専門学校]]出身であり、鉱山を主題とする『野蛮人』や『金山』などの作品も書いている<ref name="村上2006p590"/>。
* 『大洗』『閉じる家』『火の車』 - いずれも[[立松和平]]の短編小説。立松の曽祖父である片山吉之助は足尾銅山における雑夫飯場の経営者だった<ref name="村上2006p590"/>。
* 『壺中の天地を求めて』(1988年) - [[三浦佐久子]]の小説。足尾銅山の閉山後の鉱夫を描いたノンフィクションタッチの作品<ref name="村上2006p590"/>。三浦は足尾を語る会の代表も務めた。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflistReflist}}
 
== 参考文献 ==
* 小野崎一徳『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/847461 古河足尾銅山写真帖]』小野崎一徳、1895年
* 村上安正『足尾銅山史』随想社、2006年
 
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Ashio copper mine}}
{{columns-list|3|
* [[足尾鉱毒事件]]
* [[渡良瀬遊水地]]
* [[田中正造]]
* [[原敬]]
* [[内村鑑三]]
* [[志賀直哉]]
* [[日本の秘境100選]]
* [[はげ山]]
* [[環境基本法]]、[[水質汚濁防止法]]、[[土壌汚染対策法]]
* [[汚染原因者負担の原則]]、[[土壌汚染]]、[[地下水汚染]]、[[底質]]
* [[水俣病]]、[[イタイイタイ病]]
* [[公害防止管理者]]
* [[環境基準]]
* [[生物化学的酸素要求量]] (BOD) 、[[化学的酸素要求量]] (COD) 、[[浮遊物質]] (SS) 、[[溶存酸素量]] (DO) 、[[全リン]] (T-P) 、[[全窒素]] (T-N) 、[[大腸菌群数]]
* [[亜鉛]]、[[シアン]]、[[カドミウム]]、[[鉛]]、[[六価クロム]]、[[ヒ素]]、[[総水銀]]
* [[アルキル水銀]]、[[揮発性有機塩素化合物]]、[[農薬類]]
* [[ラドラム鉄鉱]]
* [[関東地方の史跡一覧]]
}}
 
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Ashio copper mine}}
* [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/847461 古河足尾銅山写真帖] (小野崎一徳, 1895)
* [https://www.env.go.jp/kijun/ 環境基準について(環境省)]
* [http://www.nikko-kankou.org/spot/28/ 足尾銅山観光(日光市観光協会)]
* [http://www.ashiomidori.com/ NPO法人 足尾に緑を育てる会]
* [https://ashiodozanworldheritage.net/ 足尾銅山の世界遺産登録を推進する会]
<!-- リンク切れ * [http://ashio.org 足尾Terrace]-->
* [https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index 国指定文化財等データベース]
<!-- リンク切れ * [http://nikko-ashio.jp 足尾銅山の世界遺産登録をめざして]-->
 
{{Normdaten}}