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[[File:Mashu-maru zenkei.JPG|thumb|240px|right|青函連絡船摩周丸(2代)]]
 
[[青森駅]]と[[函館駅]]を結んでいた[[鉄道連絡船]]「[[青函連絡船]]」[[桟橋]]として19051904年(明治3837)[[若松町 ()11月函館市)|若松町]]駅構内岸壁艀用桟橋と荷揚場、待合所が整備された<ref>『道南鉄道100年史 遥』 北海道旅客鉄道館支社 2003年2月発行</ref>。1910年(明治43年)には水深が浅いことを解決するために延長342m、幅10mのT型木造桟橋が完成し、突端に直接連絡船を着岸できるようになった<ref>函館市』p315 国鉄通説編第2巻 p655-p656 </ref>。以後[[青函航路]]と共に整備されてきたが、[[1988年]]([[昭和]]63年)9月18日に青函連絡の暫定運航を終了し、青函航路桟橋としての役目を終えた<ref>「9月のメモ帳」『鉄道管理局1970ピクトリアル』第38巻第12号、電気車研究会、1988年12月号、109頁。</ref>。
 
1910年(明治43年)には水深が浅いことを解決するために延長342m、幅10mのT型木造桟橋が完成し、突端に連絡船を南北に横付けできるようになった<ref>函館市史 通説編第2巻 p655-p656 </ref>。以後青函航路と共に整備されてきたが、[[1988年]]([[昭和]]63年)9月18日に青函連絡船の暫定運航を終了し、[[青函航路]]桟橋としての役目を終えた<ref>「9月のメモ帳」『鉄道ピクトリアル』第38巻第12号、電気車研究会、1988年12月号、109頁。</ref>。
 
{{Main|青函連絡船#桟橋}}
 
[[太平洋戦争]]中の1945年(昭和20年)7月14日に[[北海道空襲|空襲]]を受け、同14日24時までに[[札幌市|札幌]]の[[北部軍管区 (日本軍)|北部軍管区司令部]]が確認し関係機関へ打電した被害内容は[[函館駅|函館桟橋駅]]が大破、第二架道橋が中破、桟橋駅裏の用品庫に[[爆弾]]が2発命中し[[防空壕]]の中にいた[[鉄道員]]2名および[[郵便局|郵便局員]]25名が埋没であった<ref>函館市史 通説編第3巻 p.p.1286-1287</ref>。
 
=== 終航後の再開発 ===