「ジャッキー・イクス」の版間の差分

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== プロフィール ==
1967年に[[ニュルブルクリンク]]で行われたドイツGPにおいて、[[ティレル]][[フォーミュラ2|F2]]チームから参戦。予選において、並み居るF1ドライバーを凌ぎ、[[ジム・クラーク (レーサー)|ジム・クラーク]]、[[デニス・ハルム]]に次ぐ総合3位に相当する予選タイムをマーク。
レースでも、グリッドはF1の後ろとなるにも関わらず、早くも4周目終了時には12台を抜いて5位を走行して見せた。
惜しくもレースはリタイアに終わったが、この走りはF1チームのマネジャー達に対する強いアピールとなり、イタリアGPではクーパーのワークスシートを獲得。
初戦で早くも6位入賞を果たした。
 
翌1968年にはフェラーリへ移籍。
翌1968年にはフェラーリへ移籍。フランスGPで初優勝、ドイツGPではポールポジションを獲得する活躍を見せる。ブラバムへ移籍した[[1969年]]と、フェラーリへ戻った[[1970年]]にはそれぞれ2勝、3勝をマークして、ドライバーズランキング2位となった。特に1970年は、キャリアの中でも最もチャンピオンに近づいた年であったが、ランキングトップだった[[ヨッヘン・リント]]の事故死を受け、非公式ながら「死んだ人物からチャンピオンを奪い取るわけにはいかない」と発言している。しかしながら、事実として、リントが死亡したイタリアGPの前戦[[オーストリアグランプリ|オーストリアGP]]終了時点で、45ポイントを獲得してランキングトップだったリントに対して、イクスはトップのリントはおろか[[ジャック・ブラバム]](25p)・[[デニス・ハルム]](20p)にも遅れをとる19ポイントを獲得していたに過ぎず、トラブルでリタイアを余儀なくされたイタリアGPを除く最終3戦を3連勝して、ようやくリントを1ポイント上回れるという大差を付けられており、イクスの意思に関わらずタイトルを獲れる可能性は元々非常に小さなものであった。実際には、イクスはこの最終3戦を最終戦[[メキシコグランプリ|メキシコGP]]の優勝を含む優勝2回・4位1回で終え、この3戦だけで21ポイントを稼ぐ大健闘を見せているが<ref>後に、リント夫人がカナダGPを優勝したイクスに「このまま全部勝ってしまうのではないか」と言ったそうである。</ref>、この頑張りは「手を抜いた走りをするのはリントに失礼」と言う思いがあったからである。それに加え、最終的にこの年のランキング2位を獲得できたのはジャック・ブラバムやハルム、オーストリアGP終了時点で同点だった[[ジャッキー・スチュワート]]がシーズン終盤になって失速したことに助けられた部分も大であった。
フランスGPで初優勝、ドイツGPではポールポジションを獲得する活躍を見せる。
ブラバムへ移籍した[[1969年]]とフェラーリへ戻った[[1970年]]には、それぞれ2勝・3勝をマークして、ドライバーズランキング2位となった。
特に1970年は、キャリアの中でも最もチャンピオンに近付いた年であったが、ランキングトップだった[[ヨッヘン・リント]]の事故死を受け、非公式ながら「死んだ人物からチャンピオンを奪い取るわけにはいかない」と発言している。
しかしながら、これは決して[[八百長]]発言と言う訳では無く、リントが死亡したイタリアGPの前戦[[オーストリアグランプリ|オーストリアGP]]終了時点で、45ポイントを獲得してランキングトップだったリントに対して、イクスはトップのリントはおろか[[ジャック・ブラバム]](25p)・ハルム(20p)にも遅れをとる19ポイントを獲得していたに過ぎず、トラブルでリタイアを余儀なくされたイタリアGPを除く最終3戦を3連勝して、ようやくリントを1ポイント上回れるという大差を付けられており、実際の所イクスの意思に関わらずタイトルを獲れる可能性は元々非常に小さなものであった。
実際には、イクスはこの最終3戦を最終戦[[メキシコグランプリ|メキシコGP]]の優勝を含む優勝2回・4位1回で終え、この3戦だけで21ポイントを稼ぐ大健闘を見せているが<ref>後に、リント夫人が最終戦を優勝したイクスに「[[カナダグランプリ|カナダGP]]を優勝した時には、このまま全部勝ってしまうのではないかと思った」と言ったそうである。</ref>、この頑張りは「手を抜いた走りをするのはリントに失礼」と言う思いがあったからである。
それに加え、最終的にこの年のランキング2位を獲得できたのはブラバムやハルム、更にオーストリアGP終了時点で同点だった[[ジャッキー・スチュワート]]がシーズン終盤になって失速した事に助けられた部分も大であった。
 
だが、この1970年のランキング2位をピークとして、イクスのF1キャリアは下り坂を迎えること事7となる。
折からのグランドエフェクトカーの時代に彼のドライビングスタイルが合わなかった事も一因ではあった。
その後、エンサインやリジェなどの中堅チームに在籍し、1979年をもってF1から引退した。
 
F1引退後のイクスは、F1参戦中より活躍を見せていたスポーツカーを中心に活動をすることとなり、特にル・マンにおいては、1969年・[[1975年]] - [[1977年]]・[[1981年]]・[[1982年]]と実に6勝をマークした<ref>この頃[[ダンロップ|日本ダンロップ]]のタイヤ「ル・マン24」の[[テレビコマーシャル]]に出演している。</ref>。
これは[[2005年]]に[[トム・クリステンセン]]に破られるまで、長く最多勝記録であった。
また、[[1991年]]にはマツダのスーパーバイザーをつとめ、マツダの優勝に貢献した。
マン優勝後、マツダはイクスに対してボーナスの提供を申し出たが、イクスは「私はマツダを優勝させるために契約したのだから、優勝したからといってボーナスを貰う理由は無い。」と固辞したエピソードがある。
 
[[1983年]]には[[パリ・ダカール・ラリー]]にも参戦し、優勝を飾った。
 
[[モナコグランプリ|モナコGP]]の協議役員も務め、[[チェッカーフラッグ]]を振る役目を果たしていたが、[[1984年]]の豪雨のレースでは、レース中盤に赤旗による打ち切りの判断を下したことが、猛然と迫ってくる[[アイルトン・セナ]]と[[ステファン・ベロフ]]が首位走行の[[アラン・プロスト]]を交わすことを阻止する為だったのではないのかと物議を醸したこともあった。
しかし、当時のモナコは視界がまったく見えないほどの豪雨であり協議側も順位を把握できない危険な状態となっていたため、この論争はあくまで噂に過ぎない。
この論争はあくまで噂に過ぎない。
 
ベルギー人は独仏という大国にはさまれて影が薄くなることが多いことから、同郷の若手ドライバーとF1などトップカテゴリーの間のパイプ役を勤めている。[[ティエリー・ブーツェン]][[ベルトラン・ガショー]]などがその恩恵に浴した。
 
なおジャッキーの長女、バディナ・イクスも[[レーシングドライバー]]であり、[[スパ・フランコルシャン24時間レース]]やル・マン耐久シリーズ(LMES)に参戦した他、2006年からは[[DTM]][[ドイツツーリングカー選手権]]にフル参戦している。