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'''ロジーナ・レヴィーン'''('''Rosina Lhévinne''', [[1880年]][[3月29日]] - [[1976年]][[11月9日]])は、[[ユダヤ系]][[ロシア人]][[ピアニスト]]・ピアノ教師。
 
== 生涯 ==
富裕な宝石商の娘として[[キエフ]]に生まれる。間もなく家族に連れられ[[モスクワ]]に移り、6歳で[[ピアノ]]を始める。その後[[モスクワ音楽院]]にてピアノを[[ワシーリー・サフォーノフ|サフォーノフ]]に師事。[[1898年]]に大金メダルを得てピアノ科を卒業。その後まもなく、5歳年長の[[ヨゼフ・レヴィーン]]と結婚。ヨーゼフ・レヴィーンの演奏会ピアニストとしての経歴が早くも好調だったので、彼女は自分の活動は夫の二の次にして、教育や、2台ピアノでの夫との共演に活動を制限するとの誓いを立てた。この誓いは、夫が[[1944年]]に他界死去するまで守られた。
 
ロジーナ・レヴィーンは夫と[[1919年]]に[[アメリカ合衆国]]に亡命してから、夫の勤める[[ジュリアード音楽院]]ピアノ科への進学を希望する青少年のために、進学塾を開いてピアノの指導を続けていた。1944年に夫が急死すると、その肩代わりを勤められるだけの余裕はとても感じられなかったが、ジュリアードの経営陣の満場一致の要望により、没年である[[1976年]]まで、32年間にわたって夫の後任教授として数々の俊英を育成した。最も著名な門弟は、[[1958年]]に[[冷戦]]時代の[[ソビエト連邦|ソ連]]で、最初の[[チャイコフスキー・コンクール]]にアメリカ人として初めて優勝した[[ヴァン・クライバーン]](審査員のゴリジェンヴァイゼルに「[[セルゲイ・ラフマニノフ|ラフマニノフ]]自身の演奏を思い出させる」と言わせた)や[[ジョン・ブラウニング]]、[[ミッシャ・ディヒター]]のほか、指揮者の[[ジェイムズ・レヴァイン]]、映画作曲家の[[ジョン・ウィリアムズ (作曲家)|ジョン・ウィリアムズ]]などがいる。日本のピアニスト[[中村紘子]]も門下生の一人。
 
独奏者としては絶対に舞台に立たないとのかつての決意を考え直し、70代を迎えてから、[[ジュリアード弦楽四重奏団]]と共演したり、アスペン夏季音楽祭で何度か協奏曲を演奏したりした。ソリストとしての頂点は、[[1963年]]に82歳で、[[レナード・バーンスタイン]]指揮の[[ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団]]と初共演を行なった時だった。この時、[[モスクワ音楽院]]での卒業試験以来、六十余年ぶりに演奏した[[フレデリック・ショパン|ショパン]]の《ピアノ協奏曲 第1番》を演奏している。ショパンや[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]のピアノ協奏曲のほか、いくつかの小品集を録音した。ロジーナ・レヴィーンの演奏は、[[19世紀]]ロシア・ピアノ楽派の美点を映し出しており、美しく輝く音色、苦労の跡が感じられない演奏技巧、絶妙なレガート、自由自在なフレージングが特徴的である。[[1976年]]に[[カリフォルニア州]]グレンデイルにて他界
 
[[2003年]]に、かつての門人で助手を務めたサロメ・ラムラス・アルカートフによって、ドキュメンタリー映画「ロジーナ・レヴィーンの遺産''The Legacy of Rosina Lhevinne'' 」が制作され、教育界や演奏界におけるレヴィーン夫人の数々の足跡が明らかにされた。