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最初にこの概念が導入されたのは、[[源頼朝]]が右近衛大将に叙任されたことにより、従来自身の主従関係をこれに当てはめたものであるが、彼及び彼らの家臣団である[[御家人]]が[[朝廷]]から自治の確立から称されたものである。後に、頼朝自身が征夷大将軍に就任し、彼の子である[[源頼家]]・[[源実朝|実朝]]が就任したことで征夷大将軍の世襲が行わるようになり、頼朝の職名である「征夷大将軍家」・「前右大将家」の略である「将軍家」の称が確立される。
 
また、源実朝が征夷大将軍兼帯で[[右大臣]]に就任したことにより、征夷大将軍[[大臣]]に就任することが可能となったが、[[鎌倉時代]]においては、[[摂家将軍]]・[[宮将軍|皇族将軍]]は将軍解任後も大臣には昇らず、再び大臣に昇進したのは[[室町時代]]に入り[[足利義満]]の[[内大臣]]就任である
 
[[室町時代]]には、征夷大将軍に対しては将軍家という言い方より'''[[公方]]'''(くぼう)と言う言い方が用いられるが、[[江戸時代]]には[[御三家]]・[[御三卿]]や将軍庶子に対する将軍の嫡子に対して用いられることとなった。