「セシル・フィルダー」の版間の差分

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{{by|1989年}}、阪神に入団。[[背番号]]'''44'''。そのスイングの豪快さから、「荒熊」という[[愛称|ニックネーム]]が付けられる。来日当初は[[変化球]]が全く打てなかったが、当時の[[石井晶]]チーフ兼打撃コーチ(ヘッド格)、[[柏原純一]]打撃コーチ、[[村山実]][[プロ野球監督|監督]]らの指導により、変化球打ちを覚え、シーズン開幕後は[[本塁打]]を量産するようになる。特に[[横浜ベイスターズ|大洋]]戦には滅法強く、[[横浜スタジアム]]では1[[試合]]で場外本塁打を含む3打席連続本塁打を放つなど、大洋戦だけで本塁打16本を記録する。逆に、[[読売ジャイアンツ|巨人]]戦は本塁打3本と弱かった。
 
同年9月14日の対巨人戦([[東京ドーム]])で、[[水野雄仁]]から[[三振]]を喫した際、腹いせに地面に叩きつけた[[バット (野球)|バット]]が手に当たり[[骨折]]。そのままシーズンを棒に振り、[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]のタイトルを逃す。それでも、長打率.6276は、その年両リーグ最多の49本塁打を放った[[ラルフ・ブイアント]]の.6275を上回って両リーグ1位であった。
 
同年オフに残留を希望する阪神球団とは合意しかけていたが、本塁打王を獲得した[[ラリー・パリッシュ]]が翌年から[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]の指揮を執る[[野村克也]]監督のチーム編成案から外れて解雇となったことで代理人が一方的に契約破棄を通告し、メジャーリーグへ復帰し[[デトロイト・タイガース]]と契約に至る。