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しまあじ (会話 | 投稿記録)
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カラジッチの表明した概念は、1991年に発生したクロアチアと、同国で少数民族となったセルビア系住民との衝突にも影響を与えている。これらの否定的な見解に対してAndrew Baruch Wachtelの「国家の形成、国家の崩壊」(''Making a Nation, Breaking a Nation'')は異なる見方を示した。Wachtelは、カラジッチは南スラヴ民族統合の支持者であり、問題はあったものの、かつてから宗教によって分断されてきたそれまでの民族規定に変えて、言語の同質性によって南スラヴの統一を主張したものであるとした。しかしながら、Wachtelの見解には次のような異議がもたれ得る。すなわち、カラジッチ自身は力強く明確に、自らの目的は自身を「セルビア人」と規定するシュト方言話者の統合であると表明していた。そのため、カラジッチの目的はセルビア国家の領域を自身の民族言語学的なアイデアによって拡張することであり、セルビア人とクロアチア人など他の民族との統合を主張したものではない。また、[[ボシュニャク人|ボスニア・ムスリム]]は、[[オスマン帝国]]統治下で正教会からイスラムに改宗したセルビア人の子孫であるとする主張も頻繁に行われているが、クロアチアの民族主義者は「正教会」を「カトリック」と置き換えた類似の主張を行っている。このような主張は、他民族の領域を支配する口実として常に用いられるものである。
 
自国内に多くのスラヴ系民族が居住していたオーストリア帝国は、スラヴ人の統合運動を支持していた(たとえば、クロアチア語とセルビア語を「統合」したウィーン合意 [[:en:Croatian_language#Serbian_connection|en]] などがある)が、やがて汎スラヴ運動は自国の統合に対する脅威として反対の立場をとるようになった。セルビア人は[[1864年]]以降、[[マティツァ・スルプスカ]]([[:en:Matica srpska|Matica srpska]])と呼ばれる機関に設立し、独自の総主教のいる[[セルビア正教会]]を持ち、独自の国家である[[セルビア]]および[[モンテネグロ]]を得た。これらの組織はオーストリアの政府に支持され支援を受けてきたが、これらがオーストリアの影響力排除とオーストリア領へのセルビアの拡大を目指す政治的プロパガンダを流布する機関となってからは、オーストリア政府はこれらに対して懐疑的となった。歴史的なセルビア領土を要求する考え方は[[19世紀]]から[[20世紀]]にかけて(思想レベルを超えて)行動となって表れた。その代表例が20世紀初頭にセルビアの南方拡大を目指しての[[バルカン戦争]]や、セルビアの東方拡大を目指しての[[1990年代]]の[[ユーゴスラビア紛争]]である。
 
大セルビアの概念は[[1920年代]]にユーゴスラビアの首相[[ニコラ・パシッチ]]([[:en:Nikola Pašić|Nikola Pašić]])によって具現化された。警察による脅迫と選挙での不正を用い<ref>[http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,846181,00.html Balkan Politics], ''TIME Magazine'', March 31, 1923</ref>、パシッチは自身の率いる内閣に対する反対勢力(主としてクロアチア人の政敵)の影響力を低下させた<ref>[http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,719894,00.html Elections], ''TIME Magazine'', February 23, 1925</ref>, creating an environment to centralization of power in the hands of the Serbs in general and Serbian politicians in particular.<ref>[http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,720153,00.html The Opposition], ''[[TIME Magazine]]'', April 06, 1925</ref>。