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[[1823年]]に父が死去し、唐津藩は[[松本藩]]から藩主[[松平光庸]]の子([[小笠原長国]])を養子に迎え、幼少の長行は庶子となる。
 
[[1862年]]に幕府[[奏者番]]から[[若年寄]]、そして間もなく[[老中]]となった。63年に[[生麦事件]]が起こったとき、事態を早急に終結させるために幕府に無断で賠償金を[[イギリス]]に支払った。ただ「無断」とされるが将軍後見職の[[慶喜]]の黙認は得ていたといわれている。この事は[[尊皇攘夷]]派からの反発を呼び、14代将軍・[[徳川家茂]]に弁明しようとしたが、[[大坂]]に滞在中に事が露見して老中職を罷免された。
 
65年には赦免され、再び老中となり、外交事務総裁職を兼任する。1866年の第2次長州征討([[幕長戦争]])に際しては、小倉口の総督として指揮をとったが、肥後藩はじめ諸藩を束ねることができず連敗を重ね、家茂の死の報を聞き戦線をひそかに離脱している。11月に一時老中を罷免。