「ヴィルヘルム・ラインハルト・フォン・ナイペルク」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Kasumi105 (会話 | 投稿記録)
修正、増強
Hideki2009 (会話 | 投稿記録)
m ひらがな→カタカナ
19行目:
ナイペルクは敗戦の2日後に元帥に昇進した。会戦後、ナイペルクは態勢を立て直して何とか[[ニサ (ポーランド)|ナイセ]]以南のシュレージエンを確保し、[[ブジェク|ブリーク]]を陥としたプロイセン軍と[[グラッツァー・ナイセ川|ナイセ川]]を境にして睨みあい、しばらくの間膠着状態となった。8月、戦況打開のためナイペルクは[[シュフィドニツァ|シュヴァイトニッツ]]への前進を試みた。この行動はある程度大王を驚かせたが、しかし大王の軍が接近してナイペルク軍とナイセの間に割り込みを図ると、すぐに反転撤退してナイセ川南岸に戻った。
 
当時のオーストリアは孤立状態にあって、[[ボヘミア|ーメン]]には新たに[[フランス王国|フランス]]、[[バイエルン大公|バイエルン]]軍が侵入を開始するなど苦戦していた。そこでオーストリアは[[イギリス]]の仲介のもとにプロイセンと秘密講和を結ぶことを決め、その代表にやはりナイペルクが指名された。この[[クラインシュネレンドルフの密約]]で、オーストリアは下シュレージエンの割譲を認めてプロイセンと秘密裏に停戦し、ナイペルクは軍をーメンに転進させた。ベーメンでナイペルクはオーストリアからやって来たフランツの援軍と合流し、[[プラハ]]を救援するはずであったが、プラハが早くに陥落したためオーストリア軍はベーメン南部に引き返して[[冬営]]準備に入り、ナイペルクはここで軍司令官の役を免ぜられ、再びルクセンブルク要塞の司令官となって[[南ネーデルラント]]戦線に異動した。
 
ナイペルクはその後[[デッティンゲンの戦い]]にも参加したが、まもなく第一線の指揮からは引き上げられた。しかしナイペルクは以後も軍の高い地位を占めており、[[1753年]][[金羊毛騎士団|金羊毛騎士位]]を与えられ、[[1755年]]には[[ホーフクリークスラート|宮廷軍事委員会]]の副総裁に就任している。
 
ナイペルクの評価は非常に良くない。ベオグラード条約の責任問題では死刑も含めて議論され、投獄の末に代替わりによって復権したのも束の間、モルヴィッツの敗戦によって軍中の非難を一身に受け、さらに権威を喪失した。モルヴィッツで敗北したナイペルクに対する軍の反応は、複数の将軍が彼の指揮下で戦うのを拒否したと言われるほど<ref>Asprey, 1986, p.207。</ref>の厳しさで、その後も彼が地位を保ち、あまつさえ宮廷軍事委員会に席を置いていられたのは、名門貴族家の影響力と、後はもっぱら彼と皇帝の深い繋がりによるものと見なされている<ref name="Duffy_1977_19">Duffy, 1977, p.19、21 - 23。</ref>。軍事委員会での働きも悪しきものであったとされ<ref name="Duffy_1977_19" />、また就任の時点ですでに70を越えていたにもかかわらず、皇帝夫妻の好意によってナイペルクは、老齢のために職務に支障をきたすようになるまで長く在職し続けた<ref name="Duffy_1977_19" />。
 
しかし軍指揮官としてのナイペルクについては、評価は必ずしも否定的なものばかりではない<ref>Harald Skala, Wilhelm Reinhard Graf Neipperg</ref>。フリードリヒ大王は、彼の戦歴最初の相手ということもあって、ナイペルクについて一方的に低いだけの見方はしておらず<ref>ADB:Neipperg,_Wilhelm_Reinhard_Graf</ref>、モルヴィッツの後にナイペルクが採った作戦を評価してさえいる<ref name="Carlyle">Carlyle, "FIRST SILESIAN WAR, LEAVING THE GENERAL EUROPEAN ONE ABLAZE ALL ROUND, GETS ENDED", Chapter 7</ref>。[[トーマス・カーライル|カーライル]]は「何という軍人の人生。何という運命。(中略)ナイペルクは、彼がオイゲン公子ではなかったという理由で罪ありとされ、しかし国事犯として絞首刑にされることはなかった」とやや同情気味に彼の更迭を書いた<ref name="Carlyle" />。
 
== 脚注 ==
 
{{reflistReflist}}
 
== 参考資料 ==