「ノヴォデヴィチ女子修道院」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
24行目:
[[1524年]]に、ノヴォデヴィチ女子修道院は創建された。モスクワ大公・[[ヴァシーリー3世]]の命によって、建設が開始されたこの修道院は、[[1514年]]に、[[スモレンスク]]が[[モスクワ大公国]]に併合されたことを記念して建てられた。修道院は、[[モスクワ川]]の湾曲部における要塞([[クレムリ]])の役割を果たしていた。これは、他の修道院も同じような役割を持っていた。創建の際に、3,000ルーブルと2つの村が修道院に与えられた。[[イヴァン4世]]の時代には、さらに複数の村が寄進されている。
 
この修道院は、ロシア王家や[[ボヤール]]([[:en:Boyar|Boyar]]、10世紀から17世紀にかけての貴族のことを指す)出身の貴婦人たちを多くかくまったことで有名である。彼女たちには、ヴェールの着用が義務付けられた。修道院に避難してきた女性で著名な者では、[[フョードル1世]]の妻である[[イリーナ・ゴドゥノヴァ]]([[:en:Irina Godunova|Irina Godunova]]、彼女は兄弟である[[ボリス・ゴドゥノフ]]がツァーリとなるまで、この修道院に避難していた)、[[ピョートル1世]]の姉妹である[[ソフィア・アレクセーエヴナ]]、そして、ピョートル1世の最初の妻である[[エヴドキヤ ([[:en:Eudoxia Lopukhina|Evdokiya Lopukhina・ロプーヒナ]]) である。
 
[[ロシア・ポーランド戦争 (1605年-1618年)|ロシア・ポーランド戦争]]では、[[1610年]]から[[1611年|11年]]にかけての一時期、[[アレクサンデル・ゴシュースキ]] ([[:en:Aleksander Korwin Gosiewski|Aleksander Gosiewski]]) が指揮するポーランド軍に占領されたこともある。その後、修道院はロシアの手に戻り、[[1616年]]には、修道院を護衛するために、100人の護衛兵が配備された。[[1618年]]には350人まで増強され、17世紀末までには、36の村を保有する大地主にまで成長した。